同窓会の会館に史料館の部屋があります。
そこに一つのコーナーがあります。
昭和20年4月15日(日)夜の川崎大空襲で亡くなられた6名を偲ぶために設けられているのです。上の写真左から3人目が美術教師の田中先生。長く編んだ髪を頭に巻く独特の髪型だったそうです。亡くなった時にもスケッチブックを持っていたとか。よく動員先の寮で生徒たちと歌を歌っていたそうです。
今回ネットで当時の実物が売りに出されているのを知り、問い合わせたのですが、既に売れてしまっていました。
東芝の寮の一室で談笑する第一高女4年2組の生徒たち。19年から20年にかけての冬ですね。コートが掛けてあり、火鉢で暖を取っています。火鉢には鍋があります。夜なんかこれで何か料理して食べたようです。電灯には布の覆いがしてあります。灯火管制下にあったのです。
作業着だったり、着物を改造した(筒袖にして下が同柄でもんぺになっている)ものを着ています。
布団は山形から送ったとのことです。
この写真を部室に掛けて稽古していました。
当時の服装を再現した人形。左側は、戦争末期全国共通の女学校の制服だった白いヘチマ襟のもの。下はもんぺ。もんぺと言っても、昔からの村山もんぺ(山形もんぺ)は袴のように横が空いていて、おしりの部分が垂れているのですが、そういう形ではありません。
明治産業(明治製菓)に動員されていた方(3組)の当時の日記。思ひ出の記。鉛筆書きです。
15日は空襲の様子が途中まで書いてある。このノートを持って退避したのです。
16日、17日の日記。ここで終わっています。以下、4月8日以降の分を載せます。
四月八日(日)曇
今日は大詔奉戴日、いよいよ今日でお別れ、二十二時の汽車で行くそうである、早めに仕事を終して帰り寮前のテニスコートにてお別れの歌を共に歌ふ、加賀さんの兄さん(豫備学生)面会に来るなんとうらやましい事よ、「別れの歌、校歌」を歌ふ、自然涙ぐんでくる、ああこれでお別れ自分達より早く山形へかへるとは、駅まで見送りに一・二組来るとすぐプラットホームに入るが芳子ちゃんも帰るのだ、まもなく電車きて さいならと叫びつつ別れとなる、にくらしいかな、寮にかへるとすぐ田中さん部屋に○って来る、大掃除だ、十時すぎゆっくり休む、
四月九日(月)雨
今日は三人寮当番、点呼後風呂たきの木を運び朝食をとりにゆく、お汁ももらってきて寮にてたべる、洗濯し、後どんどん焼きを作ってたべる、春雨がしとしとふっている、晝食後すぐ風呂たきをやる、 庄司さんちょっときて、たいてくれる、大分早くわいた、三人早く入り髪を洗ふ、いい気持、チリ紙配給する、田中さんより梨いただく、大変さっぱりしておいしい、
四月十日(火)雨
今も雨ふりだ、晝休み屋上の小屋にて田中先生とコーラスをする、大分人もへって今は三十人である、寮にかへりみんなで歌をうたふ、衿カバーを作る、
点呼後少しして電燈消へる、外は雨風で大変ひどい、窓ガラスひどくゆれひらく、
四月十一日(水)晴
昨夜の雨風もどこへやらからりと晴れ朝日がさしてゐる、今日は二・三・四分隊休みである、なほ人数が少なくなった、十五人 田中先生スケッチをなさっている、 郁ちゃんより手紙きていた、田中さん達履歴書かいてゐる、ペン練習字で練習す
四月十二日(木)晴
江ちゃん頭痛くて休む、三十八・八度あるそうである、
午後から田中さんと山岸さん寮にゆく、晝休み田中先生より頼病のお話きく、炊事当番早くやめてゆく、ワッカで筒を作る、風呂に入りいい気持 ねそべって本よむ、十一時すぎちょっと警戒になる
(欄外書き込み ペン)
十二日午後ルーズベルト急死、腦貧血にて、
新大統領にトルーマン昇格、 (享年六十四才)
米損害九十万に迫る、 午後三時三十五分
四月十三日(金)晴
今日は少しねぼうした、昨日の空襲は郡山までゆき投弾機銃掃射までしていったそうである、きっと山形は空襲になった事である、夕刊でルーズベルト脳貧血でたをれくたばったそうである ああメデタヤメデタヤ啓ちゃんより面白い手紙きていた、その返事と兄さん和ちゃんとに手紙書く、
降魔隊の隊歌(黒潮特攻隊)
生れた国が日本なら、まこと男の子は桜花
咲くも散らうも美しく眉あげて征け若鷲よ
(欄外書き込み 鉛筆)
十二日の戦果撃墜四十一機
損害あたへえたるもの八十機
四月十四日(土)晴
昨夜十一時頃警戒三時迄四時間にわたりB29関東福島県下に侵入 投弾した、
壕内に約三時間おしりがいたいやら寒いやら
三時頃床につきねむったが起床は七時、全くあわてた
工場にいってもねむい、晝休み小美屋いってきり等かってくる、火をおこし田中さん米をいる、近ちゃんより手紙きていたので返事かく、百人一首うつしがきする、
四月十五日(日)晴
寮より帰りて後手帖作りをやる 奥山さん狭き門うつしに来る 点呼後大いに遊ぶ、歌うつしをやっていると警戒九時半頃であった、すぐ空襲待避す、間もなくすごい音、みるみる中に附近が発火しもえて来る、皆一せいに出てかけ出す、
四月十六日(月)晴
午後から女子寮に板を運びにゆくと熊ちゃんの死体があった しづかな真青な顔であった、
四月十七日(火)晴
薄井先生が見えられないので又ここで話す、九時頃寺のうらにB29撃墜した姿をみにゆく にくきにくき敵国の死神、機のかけらを少しひろってくる、晝頃ズボン吊りを買って来る、B29一機来襲、水も断水だ、部屋へねころんでた、先生まだいらっしゃらず 悦ちゃんもわからないそうだ、
以上です。
今回の台本の台詞に、B29の機体の破片を拾ってきた、と書いたのはここにある記述をもとにしています。1・2組がいた東芝の寮は田んぼの方にあり、すぐに避難できたようですが、3組のいた明治の寮は町中にあったため、火にまかれ機銃掃射を受けました。
空襲による大火災の中では、猛烈な風が吹くのだと聞きました。機銃掃射の音は、バケツで水を撒くような音だったそうです。逃げる中で履き物を失い裸足になったそうです。
東京大空襲の写真を見ましたが、焼死でない女性の遺体は多くが裸足でした。下駄履きが多かったのだと思います。