第6回春季全国高等学校演劇研究発表会 6

 今日は始業式、入学式だった。寒くて時々吹雪いた。山形でも入学式のこんな雪は珍しい。昨年の入学式は余震で停電、登校した2・3年生徒は帰し、職員が清掃と会場準備。電気の復帰を待って入学式を行った。天気はその1日だけ良かった。
 
 
 春フェスタで観劇した残り2作品の感想はなかなか書けなかった。そうしている内にもどんどん忘れていくので、ますます書けなくなる。しかし、コメントくださった方に逆に感想を要求したりした手前、自分の感想も書かなければならないだろう。
 理解が浅いのは、集中しきれなかった自分のせいなのですが、あえて覚えている範囲で書かせていただきました。間違い、曲解があるかも知れません。ご指摘ください。
 
 
『ちいさいタネ』作、黒瀬貴之  学校法人豊川閣妙厳寺豊川学園豊川高校(愛知県)
 
 広島市の顧問の先生の作品。舟入高校顧問もなされたようで、原爆をテーマにした作品を書かれている。
 川の土手と思われる3尺高の石垣が袖から袖へ通じている。石垣の書き割りが、けこみになっている。上手後方に焼け焦げた立木が1本(ラストでは緑の葉の吊り物が下りてくる)。両側の袖際は壊れたブロック塀のような書き割りだ。やや上手寄りに石を積んだカマドがある。それ以外住みかと思えるような物はない。上手袖が寝所なのだろう、布団を持って出てくる。中央に狭めて、もっと高い土手下の、隠れ家のような小さな場所を作れないかと思った(実際の広島には合わない設定だろうか)。
 
 被爆後の広島に生きた4人の浮浪児(戦災孤児)の物語。孤児だけの生活ということで、「火垂るの墓」を連想した。1人だけ身なりのいい子がいるのは、これが後年まで生き残る子で、なぜか未来から過去にもどって来て3人と生活を共にするという設定になっているから。この不自然は芝居のお約束で乗り越えてしまう。
 
 「浮浪児狩り」に来る福祉関係の女性。施設に入れて学校へ通わせようとするが、ヤクザの下で靴磨きやモク拾いや置き引きをさせられている子どもたちは、「勉強するとバカになる」といって拒否する。浮浪児同士のけんかもあるが、子どもたちは力を合わせて生きようとする。
 「ちいさいタネ」は浮浪児の1人の女の子が作っているお話である。この子は空想の中にのめり込むと動かなくなってしまう。小さなタネがたくさん飛んでいく。途中で落ちたタネはその場の環境によって埋まったり食べられたり、しかし、1つのタネが芽を出すとまた多くのちいさなタネができて世界に飛んでいく。といったような話(あまり詳しく覚えていない)。他の子どもたちもこの子の話を喜んで聞く。苦しい生を支える夢。
 やがて子どもたちは、病気(原爆症?)や川に落ちた父の釣り竿を拾おうとして流されたりして亡くなっていく。
 1人生き残った男の子は成長し、無理解な大人から被爆者であることを理由に娘との結婚を拒絶されたりもするが、別の女性と結婚し子供もできて、家族そろってかつて浮浪児として暮らした場所を訪れる場面で終わる。装置にやや変化あり(柵や木の葉)。
 生き残ったことをすまなく思う心情は、大震災にも重なってくる。舞台前面に土下座する男、背後の土手上に3人が立ち並び男に声をかける構図。
 1粒のちいさいタネは生き残り、芽吹いた。
 
 男の子は体格が良すぎて、最初小学生には見えなかったのが残念。仕草がやや自然さに欠け、大げさな感じがした。女の子は幼いことを表現したかったのかも知れない。男の子は(癖なのか)台詞を言う際、少し走り出るような仕草をすることが多かった。
 
 
 
 
『渦の中の私』 作、宮崎真生子 潤色、五ノ井幹也  兵庫県立伊丹西高校
 
 舞台中央、上手寄りに緑の公衆電話(本物に見えた)。黒い縦に細長い台の上に置かれている。この電話にどこからか着信して鳴る。すると自転車に乗った女性が現れて受話器を取る。この女性が実は不登校の子らしいのだがよく分からない。電話の指示に従ってジュラルミンケースを届ける役割を持っているというのだ。ジュラルミンケースには身代金が入っているというので、公衆電話ネタで漫才じみたことをしていた兄弟が追っていく。
 上・下手寄りに黒い平台や長いボックスが置かれていて、女子高校生が腰掛ける。ここで同級生2人が延々と会話する。話し方は日常会話に近く、台詞的でない。
 照明は全体的に暗い。舞台面を暗い色で染めて人物はSSで見せるというような照らし方だったように思う。
 あとはなにも無い空間を、自転車(先の女性以外にも)が走ったり、糸電話を作って遊んだりする。この糸電話はじゃがりこか何かの容器でその場で作りあげる(なぜか糸がある)。そこに糸電話を持って2~3人が加わり、初めの2人が会話している糸の途中に糸を懸けて会話する(当然混線する)。
 公衆電話の指示に従って走り回っていたいた子も、他の子と語る内に元に戻ったようで、めでたしと思うが、今度は別の子が公衆電話の音に誘われて…幕。
 もっといい場面があったと思うのだが、記憶がよみがえってこない。申し訳ない。
 
 生徒の書いた脚本に顧問が手を加えた作品。そのせいか、60分間の全体の流れが見えにくかった。いくつかの断片的イメージを羅列していて、一貫したドラマとしての構成は希薄であるように感じた。意図的にそうしているのかもしれないが、だとしたらその意図は明確には伝わってこなかった(自分には理解できなかった)。それぞれの場面の作りは視覚的に考えられていて(パフォーマンスとして)面白い部分もあるのだが、筋を追う見方では途中からついて行けなくなった。そのため肝心の台詞の記憶がはっきりしない(観劇から日にちが経ってしまったこと、自分の記憶力の問題もある)。
 
 精華高校「演劇部」さんがコメントしてくださったように、電話(公衆電話、携帯電話、糸電話)が高校生同士のつながりを象徴しているのだろう。このへん(象徴的手法?)は『青春リアル』の動画中継や紙袋に通じるかもしれない。また両者は共通して、芝居の意味を自己否定?するようなラストの作り方だが、東京や大阪などの大都市圏で、非常に多くの演劇部が競う地区では、こういう終わり方の方が(その特異性ゆえに)評価されるのだろうか。
 「演劇部」さんの解釈で、「渦」の意味はなるほどそういうことかと思った。自分はタイトルの意味を考えていなかった。平成仮面ライダーとの関連は、自分はそのシリーズは見ていないので、残念ながら分からない。
 
 …この作品についてはどうもよく書けません。「演劇部」さんのコメントの方がはるかにいいですね。