アシナマリ

 ずいぶんと前のことになるが、『アシナマリ』という劇を観た。南アフリカの黒人が歌い踊り、芝居をするのだが、舞台には椅子1脚くらいしかない。台詞はすべて英語。舞台上・下にスクリーンがあって、字幕が出た。内容はアパルトヘイト下の黒人たちの苦悩だ。そのころは、やっと、この人種隔離政策が終わる頃で、演ずる役者? たちは皆、実際に差別を経験した人たちだったろう。
 人間を差別する政策の実際を滑稽な表現で風刺し、笑わせていく。やがて暴動が起き、友人は帰らない。途中から役者が客席に下りてくる。そして観客に問う。お前はどう考えるか。お前は何をするのか。問われた方は英語が分からないこともあるのだろうが、はにかんでしまうだけで、答えないでいる。すると、お前は笑うのか! 俺は問うているのにお前は笑うのか! と言って彼は舞台に戻っていって、また歌い出した。端で見ていてもかなり緊張させられた。
 事実を体験している者の強み。それが最大限に発揮されている。この劇は楽しむためのものではない。メッセージとしてとらえるべきものなのだ。共感するには相当の気力が必要だと思った。
 
 なぜこんなことを思い出したのか。今回の大会の某高校の作品に対して、賛否両論があるようだからだ。自分はリハーサルと本番のごく一部を袖から観ただけなので何とも言えないのだが、かの地の高校生が、自分たちの抱える怒りなり不安なりを芝居にしてぶつけることは誰も否定できないだろう。ただ、その提示の仕方が、芸術にではなくメッセージに傾いたということではないか。
 
 時事ネタを上手く取り入れる上演校もある。審査員も、時代にマッチしたものとしてそれを評価する場合がある。しかし、それが、流行のレベルを超えて、真実にまで迫っているかどうかは疑問である。体験者でない者が流行に乗って演じただけなら、底は浅い。
 では、体験者が演じたものが、それとあまり変わらない浅い表現になっている場合はどうか。
 また、原子炉事故の被害、避難所生活、風評被害、地域差別などを体験していない高校生が、想像力を駆使して、その真実に迫る表現をした場合はどうか…。
 
 演劇の評価は、演者自身の体験如何によるのではなく、演じられた表現の質によるべきだという、当たり前のことが、やや見失われているのではないか、と思ったりしている。でも、弁論大会などでも、弁士の体験の差が、結果に直接関わってしまうからなあ。難しいことではある。