ゴジラ -1.0

 『ゴジラ-1.0』を4Dで二回観た。昭和29年に初登場したゴジラは、その後続編が多く作られ、日本人ほぼ全員に世代を問わず知られる存在だろう。

 映画作品の中ではゴジラのいる世界が普通で、登場人物が「あ、ゴジラだ。」と既知のものとして呼ぶような作品もあったかと思う。しかし、昭和20年から22年に設定されたこの作品ではもちろん誰も知らない。(まあ『シン・ゴジラ』でも未知の存在という設定ではあったが)

 一方観客にとっては全然承知のもので、背景音楽さえ聞きなじんだものでワクワクするのである。自分も小学生のころから何本も見ていて、懐かしい。

    

 敗戦後の日本は国家主権をGHQにおさえられ、武装解除されていた。が、この作品にはジープに乗った米軍兵士もMPも出てこない。『シン・ゴジラ』のように米軍の最新兵器が登場して戦うわけでもない。都会の焼け跡から傷を抱えながら復興に向かって営々と働く人々しか登場しない。戦うのは武装解除された日本人で、使うのは辛うじて残されていた武器である。意図的にそうしたのだろう。つまり、日本人としての連続性を表現するため、占領を描かなかったのではないか。

 先尾翼局地戦闘機震電」が実戦可能になっていてゴジラと戦うという設定はマニアにはうれしいところ。

 

 前半、日本近海の機雷掃海任務にあたる木造掃海艇が海上ゴジラと戦う。考えてみると、ゴジラとの洋上戦闘場面はあまり記憶にない。戦後の掃海作戦は小説『機雷』などを読むとよい。映画では機雷を咥えさせ、射撃して爆破させるが、これは映画『ジョーズ』のクライマックス場面そのままだった。

 CGの背景やセット、小道具は時代色があり、幻燈スライドの文字もいい感じに戦前風だった。電報を人が届けに来るなんて経験はもうほとんどの人が知らないだろう。

 ただ、逃げ惑う人々のエキストラの中に肥満気味の人が見えた気がしたが、昭和22年に肥満はちょっとどうかと思った。まあ絶無とは言えないだろうが。

 

 

 海神(わだつみ)作戦でようやくゴジラを沈めた時、男たちは敬礼する。その意味はこれまでゴジラの犠牲になった人々に捧げるものだったのだろうが、自分にはゴジラそのものに対して捧げられたもののような気がした。強敵に対する敬意?

 更に言えば、ゴジラを倒すことによって「本当に日本の戦争が終わった」、決別したような気がしたのだ。ゴジラは「戦争」の象徴なのかもしれない、それに憑りつかれた戦前という時代への決別、その中で斃れた名もなき多くの人々への敬礼であったような気がしたのだった。

 

 椅子がガンガン動くし、水が吹き掛かるのが面白かった。

美瑛 半澤農場

 半澤久次郎が明治三十年代から北海道で行った開拓について、今知り得たことをまとめておきたい。以下、年表的に羅列する。資料はほぼ『美瑛町史』による。

 

1894 明治27年 7月、健吉(宏)没。40歳。⑤爲澄妻キノ、最上三十三観音巡礼。

 「空知地方・美唄市西美唄町山形地区には山形県出身者が多く移住しています。1894(明治27)年、山形村山地方の零細農民が農民移住団体を組織。この地区の開拓が始まり、1921(大正10)年には水田化に取り組むと、さらに山形県からの移住民が増えています。地縁・血縁のネットワークを大切にしている県民性によるものでしょうか。」 

1900 明治33年 135万7千坪貸下を受け、難民救済のため拓地開発を企図せんとする計画。管理人、片桐助吉。この久次郎は⑥爲傳であろう(49歳)。彼はこの時期家政を令息(⑦爲邦であろう。32歳)に任せている。

 なお管理人の片桐助吉については未詳だが、片桐は漆山にも江戸時代からある苗字なので、漆山から派遣された人かもしれない。

1905 明治38年 安藤市兵衛(30歳)、叔父半澤久次郎の依頼を受けて渡道、美瑛村に半澤農場を設立した。

        3月末、⑥爲傳、洞翁と改名。54歳。⑦爲邦、漆山倉庫入社。叔父(義伯父)とは爲傳(洞翁)であろう。

1907 明治40年 8月15日、農場に半澤神社創建。出羽三山を祀る。後、天照皇太神宮と明治天皇を合わせ、9月21日を例祭日とする。

1908 明治41年 方針を一変して牧場とする。安藤市兵衛、管理人となる。

1909 明治42年 12月に至り457町5反歩開発成功。無償付与を受ける。

1910 明治43年 西村政吉(37歳)、渡道し半澤農場主安藤市兵衛の知遇を得る。

1911 明治44年 西村政吉、安藤市兵衛に代わって半澤農場の管理人となる。

1912 明治45年 収支相償わず方針を一変し、農業経営に改める。

   大正元年 小作人15戸を収容。開墾を開始。毎年20戸の小作人を移住せしむ。ただ、資本を有する者は皆無。食糧さえ無いものが半数近く。

1914 大正3年 2月、洞翁(⑥爲傳)没。

1915 大正4年 農場の立ち木を伐採、薪炭として旭川で売り、最高80円、最低30円を得た。しかしやがて伐採し尽くした。
        安藤、住民の願望により立候補し、村会議員当選。四期務めた。

1916 大正5年 流通資本(回転資金)としての小作人への貸付6千円。最高5百円、最低20円。利子は毎月1分5厘。

1917 大正6年 120戸の小作人があったが、次々に退出し、半減して60戸となる。小作人の移住費用、食糧供給は総額2千円。肥料として厩堆肥と過リン酸石灰2千2百叺を貸付。農場開始以来の起業費は元利金1万8千円。

1922 大正11年 10月22日、⑦爲邦没。54歳。弘介(⑧爲弘)27歳、相続。

 

 昭和に入って以降の半澤農場の様子はまだわからない。ただ、農場は今も「北瑛農場」として存続しているようであり、安藤氏の彫像が建てられている。

 安藤市兵衛は明治八年に山形市七日町の「八つ沼」という衣料品店(足袋屋)に生まれたという。十五、六歳のときに先代市兵衛を亡くし跡を継いだ。妻は新関善八の五女ワカである。したがって、姉のキヌ(長女)が嫁した半澤健吉の伯父⑥久次郎(爲傳)とは義理の伯父甥の関係になる。伯父の勧めで開拓に携わったという記述からは、爲傳の発案であったと思われるが、実際は⑦爲邦が関わり、安藤が実際の開拓の責任者ということだったろう。しかしまた安藤市兵衛は他にも事業を起こし、多忙であったため、管理人を西村政吉に譲る。安藤の五男友之輔は父の命により美瑛町議、町長をつとめた。

 

 (以下追記)

 北瑛開拓顕彰碑碑文

 本町の北高台に広がる約六百ヘクタールの北瑛は元半澤農場及び産牛馬牧場更には夕張、野上、加藤の各農場の一部を区域として入植した人達に依ってつくられた。

 当時を偲ぶに、これらの先人は狐熊が出没する密林荒野に小屋をかけ、粗衣粗食に甘んじ、晨には月影を踏み夕べには星を戴いて木を伐り炭を焼き、後地を焼払っては鍬を入れ、厳しい自然の猛威と闘い言語に絶する苦難に耐え、歩一歩と開拓の実をげ今日を築かれたのである

 我々は現存する三十九戸の経済の源として発展を続ける北瑛の基はかかる先人の血と汗の結晶であり、更にはこの偉業を受け継ぎ今日に伝えられた多くの人々の努力に依ることを想う時、心から感謝と敬仰の念盡ることなし、以来星霜重ねて茲に開基八十年を 迎えるに当たり現住者相計り今感激を新たに、顕彰碑を建立し、その名を刻み功績を讃えると共に、この鴻恩を後世に伝えんとす

     昭和五十七年六月二十日之建

         協賛会長 大西弘近

 

 (北瑛農場に建てられた安藤親子の肖像銅像に書かれた文章。下線は筆者)

 安藤市兵衛翁は、幼名を安次郎、四代目市兵衛、ナカさんの長男として明治八年八月七日山形市に出生さる。小学校卒業後、家業の仕立業に従事、十七才の時尊父死去、五代目市兵衛襲名翌年新関ワカさんと結婚、爾来陸軍並に県警御用、消防指定商等家業を伸長、明治三十二年二十五歳にて渡道親戚半澤牧場を成功更に進めて半澤農場を創設、地域の産業、政治経済等幅広く貢献さる。大正期より東京市に於いて一族の発明に関る電磁式電気時計の企業化に成功業績を挙げらるも昭和二十年戦争に依る爆撃で廃業止むなくその後山形市にて老後を過ごされるも二十三年十月二十三日逝去さる。

  北瑛開基八十周年記念事業協賛会建立

 

 安藤友之輔翁は五代目市兵衛、ワカさんの四男として明治四十三年七月十九日山形市に生まれる。早稲田大学東京農業大学卒業後父の意志を継ぎ北瑛で農業に従事、昭和十五年八月福田みよさんと結婚する。

 昭和二十三年美瑛町農協常務理事をはじめ農業関係団体の要職を歴任。昭和二十六年から十六年間 美瑛町議会議員として副議長議長を歴任、昭和四十二年から二十年間美瑛町の首長として尽力した。質実剛健自己に極めて厳正、旺盛な研究心と実行力に富み責任感と常に平等の精神強く、誠実にして信念堅固、温和と寛容な態度を持ちあわせ、加えて鋭敏な感覚をもって、地域の振興発展に大所高所から広く貢献された。昭和六十三年美瑛町名誉町民推戴、同年十二月勲四等旭日小綬章、昭和十年十一月従五位に叙される。

     平成十二年六月二十五日

     北瑛開基百周年記念事業協賛会建立

 

 なお、半澤神社は明治神社と名が変わって残されているようだ。

 

令和6年大学共通テスト古文・漢文問題を解いてみた

古文

 物語だが男女の恋物語ではなく、友人と和歌を交わしたときの風流な話。

 文章は主語に迷う箇所もなく、敬意の対象もわかりやすい。基本的な助詞、助動詞、敬語の知識があれば容易であろう。問題文としては適切だと思われる。

 設問中に、この問題文に対する批評文が引用されていて、問題文を読み込む手助けになっている。この意図も有効、適切だろう。

 問題文への注と牛車の図は丁寧だが、過剰とみる向きもあるかもしれない。

 

問1 語彙的問題で、部分訳を選ぶ。

 「あからさま」「とみ」「かたち」「をかしげ」など基本的なものばかり。教科書にもよく出てくるだろう。

 

問2 文法的問題。助詞、助動詞の判別、敬語(二重尊敬、敬意の方向)。

 ①は連用形に接続しているので過去の助動詞とみるべきだろう。

 ③は「サ未・四已(さみしい)り」でサ変動詞「す」の未然形に完了存続の「り」が接続しているのは正しいが、その下の「人々の顔色が」の部分が不適。顔色ではなく、辺りの景色、様相が一変したのである。

 ④は、尊敬の補助動詞と同時に用いられる「す、さす、しむ」は使役でなくて尊敬と覚えていいだろう。

 ⑤の「給ふ」は尊敬の補助動詞だが、「見る」動作主が主人公であって大夫ではないので誤り。

 

問3 和歌の応答について。状況が読み取れていればわかる。

 ①は「源少将が誘いを断った」が誤り。主人公は急に思い立ち、誰にも知らせずに出かけたとある。

 ②は「主人公への恋情」が不適。

 ③は、掛詞の説明は正しいが、「源少将が待つ」が誤り。

 

問4

 (ⅰ)①は、本文20行以降雲が晴れて月が出るので、12行ではまだ月はない。

    ③④も同様に誤り。

 (ⅱ)①「わずかな隙間が生じ」「一筋の月の光が鮮やかに差し込んで」が誤り。本文は「なごりなく晴れわたりて」「天地のかぎり、…きらめきわたりて」とある。

    ③「今夜降り積もった雪が、その月の光を打ち消して」が不適。

    ④「白銀うちのべたらむがごとく」は地上の雪で、夜空の星々ではない。

 (ⅲ)①「足手の色を気にして仕事が手につかない」が不適。急なお出ましに慌てて失態を演じているのである。

    ②「院の預かり」の体調を気遣っているわけではない。

    ④「都に帰りたくて落ち着かない人々」「周囲の人を気にかけない主人公の悠々とした姿」が不適。

 

 

漢文

 杜牧の詩『華清宮』について。詩の内容に関しての資料(漢文)との融合問題。

 問4までは容易だが、問5、問6には正確な読み取りが必要になる。

 

問1 一見して七絶とわかる。空欄はない。押韻する箇所を知っていれば容易。

 

問2 語彙の問題。

 (ア)「百姓」の選択肢に「農民」がないので間違えようがないだろう。

 (イ)漢文とは限らず、日本語の語彙として知っておくべきということか。

    こういった知識(常識、教養)は各人の読書量如何による。

 (ウ)「因りて」と読めるかということ。

 

問3 「有」「所」は返読文字である。

  このことから、返読していないものを除外すれば④しか残らない。

  「人力」と「人命」の対応に気づけば対句として読めるだろう。

 

問4 詩の第三句(転句)の解釈。「それを見て楊貴妃は笑う」はみな同じ。

  早馬が「来る」の選択肢が三つ。「ゆく」「倒れる」が一つずつ。

  何の(誰の)ために荔枝を持ってくるのか。資料Ⅰに「貴妃嗜荔枝」、Ⅱに「明皇致遠物以悦婦人」とあることからわかる。 

 

問5 資料Ⅲ、Ⅳによる詩の事実考証。

  Ⅲは玄宗が華清宮にいるのは冬で、六月まで居たことは無い。だが荔枝は夏に熟するものであるので、時期の不一致がある。①②は誤り。

  Ⅳは別資料に拠り、玄宗が六月の楊貴妃の誕生日に華清宮を訪れ、荔枝が献上されていたことがあったとする。詩の内容と一致することになる。しかし③④は「荔枝香」の説明が不適当(果実の名であるという説明は文脈に合わない)。

 

問6 詩の鑑賞。問5から、事実の有無は決め難いので①や③のように断定はできない。

  あとは杜牧が玄宗をどのようにとらえているかであるが、資料から読み取れることと鑑賞文の表現にやや懸隔があって紛らわしい。

  玄宗(と楊貴妃)のとらえ方が肯定的か否定的か。

  ②と④⑤は対照的で、どちらもあり得るが、④の荔枝の「希少性」「写実的」、⑤の「永遠の愛」などは(類推できるが)資料に直接には出てこない。

  資料Ⅰ、Ⅱにあるのは、人命を軽視した「不適当な手段」による運搬と百姓の困苦である。それで正解は②なのだが、しかし、そこから「為政者の道を踏み外して楊貴妃に対する情愛に溺れたことを慨嘆している」となるのは少し飛躍している感もあるので、「紛らわしい」とした。教科書で『長恨歌』などを読んでいれば、かえって⑤に引かれるかもしれない。

 

 以上、1月14日夜。誤認があれば都度訂正します。

 

(追記) 漢文については、「再読文字」も「疑問・反語などの句形」も無く、そういった知識面よりも内容理解を主眼としていることがわかる。したがって、受験生にとっては、付け焼き刃的な知識よりも、多くの漢文(あるいは現代評論でも)に読み慣れている(読書量が多い)方が有利になる。文章を読み、理解する(論理的に考える)力こそが問われていると感じた。方向性としては正しいが、最後の詰めがもう一歩というところか、というのが感想である。

半澤久四郎、久三郎 考

 山形市漆山の豪農半澤久次郎家について、明治十四年の明治天皇御巡幸に関連して、久四郎と久三郎について考えてみた。(1月15・16日・22日修正)

 

 明治九年六月に大久保利通、九月に三条実美が半澤家に立ち寄った際、彼らの日記には「半澤久四郎宅」と書かれている。そのほかの記録でも、明治八年の立附米四千表余を記録したのも半澤久四郎とある。一方、明治十四年に明治天皇が御小休された諸記録には「半澤久三郎家」と書かれている。

 明治二年三月の宗門人別改に、「漆山村、大庄那須弥八、名主半沢久次郎、大庄屋 見習那須五八、名主見習半沢久三郎」とある。また同年十一月七日、「半沢久三郎、取締見習・帯刀御免被仰付」ともある。

 これらに該当する人物は、久四郎が四代為親久三郎が五代爲澄(為親の養弟で嗣子)と考えられる。「久次郎」という、二丘以来の襲名の外にこのように呼ばれていたのだろう。

 この記事をお読みいただいて、以下のご教示を受けました。

 「番付『山形縣管内 持丸長者鑑』〔明治18年10月24日御届 山形七日町 菊地豹次郎〕に、「中央 年寄 半澤久四郎 拾萬圓」とあります。」

 明治十八年であれば、五代爲澄の他界後四年、六代爲傳の時期である。世間一般では爲傳が久四郎と呼ばれていたことになる。

 父爲澄の死亡届と葬儀伺は「相続人半澤久三郎」の名で出されている。すると爲澄の長男(爲傳)は父についで久三郎を名乗り、さらに久四郎と改名していたことになる。

 周知のように爲澄は御巡幸の一か月前に急死している。明治天皇御巡幸の記録に残っている久三郎は、当初の計画のままだったのか、急遽爲澄の跡を継いだ爲傳のことだったろうか。

 

 出世魚のように名が変わるようだ。幼名の亀治・亀吉も繰り返し出てくる。

 亀治 ⇒ 久四郎 ⇒ 久次郎・爲親(諱)

        久三郎   ⇒ 久次郎・爲澄

                久三郎  ⇒ 久四郎 ⇒ 久次郎・爲傳

                明治14年     明治18年

 

 父親の急死に長男(30歳)はじめ兄弟たちは痛悼と家政多難の思いに打たれていた。その中で、次男(27歳)が果断に言ったことには『守家の法は勤倹に在り』と。遂に「與兄弟相謀 省冗除煩 賣書画古器不善物 買田数萬畝 田倍旧時 改革家規 始定其吉凶祭祀日時」(「半澤健吉墓碑銘」より。健吉墓は浄土院から離れた場所に他の半澤家の方の墓とともにある。ただし、四代為親の墓はそこにも無いという) 

 爲澄の次男は「宏」といい、「健吉」は諱である。長男が久次郎家を継ぎ、次男が支えたということだろう。

 

 その後、兄六代目久次郎は明治二十二年に初代漆山村長となり、その子の亀吉(諱は爲邦)は同年に勉学のため上京している。

 

 宏(健吉)の子亀治は明治三十五年に早稲田英政を卒業している。明治三十六年四月には東京で阿部次郎(20歳)と初めて面会している。亀治は卒業後「漆山倉庫」の支配人を務め、大正六年に建吉(健吉)と改名している。健吉家は二代に渡って久次郎家を支えていたことになる。

 亀治(建吉)の相続人は旧土地台帳によれば「宏吉」である。この人は優秀で、昭和四年に山形高校文乙卒業後、京都帝大法に進んでいる。昭和七年三月に健吉(亀治)が五十四歳で亡くなると同年七月に相続している。その後は未詳である。

 

 この宏(健吉)という人は墓碑銘によれば、幼いころから米沢の曽根一貫に学び、帰って家政をよく助け、その余は国書を読み和歌を好んだ。また「奉神職爲教導職七年辞焉」とある。「教導職」は明治四・五年ころ神道国家をつくらんとの試み「大教宣布」運動から設置された宗教官吏で、半官半民の任命制だったが、うまくゆかず、明治十七年には廃止されたものである。wikipedia

 宏(健吉)はいつからいつまで教導職だったか。明治五年には十八歳で、まだ人に講義するには早いように感じるが、当時は早熟な人が結構いたから有りうる話ではある。明治天皇御巡幸時にもまだ教導職だったとすれば、その七年前は明治七年となる。この辺が職に任じていた期間だろう。教導職には弁の立つ人が選ばれたようだから、彼もそうだったのだろう。

 また、同時期に神社の制度が定められ、「村社」に「祠掌」がおかれた。これは地方の豪農などが充てられたようだ。(祠掌は後に社掌に変わった)明治十年ころの記録である『旧高旧領取調帳』には、「神社」の項に次のようにある。

 村社 稲荷神社 漆山村  祠掌

         千手堂村   半沢乙卯四良

    神明社  上東山村 祠掌

                半沢乙卯四良

    水神社  下東山村 祠掌

                半沢乙卯四良

 これらの「乙卯四良」はおそらく「き う し ろ」と読むのだろう。つまり久四郎で、四代半澤爲親が祠掌に任じていたことになる。半澤家が敬神家だったのか、その立場上引き受けざるを得なかったのか、その両方か。爲親は明治十年に亡くなるので、任じた期間は数年足らずだった。ちなみに乙卯の年は安政二年で、たまたま宏の生年である。なお、浄土院の墓以外に墓を建てた(健吉や爲邦の個人の墓、爲弘のみの半澤家墓)理由はよくわからない。単に場所が無かったのかもしれないし、上記のように神道関係の役職に就いたので寺を避けたということかもしれない。肝心の為親の墓が無いのも、彼が祠掌だったせいなのかもしれないが、墓碑銘が伝わっているのだからどこかに墓はあるはずなのだが。

 

 時代下って大正十一年に「東南村山教育會」への拠金を行った人々の中に、久次郎と久四郎の名がみえる。この久四郎も久次郎家に近い親族なのだろうが、そのつながりは今わからない。

 

 以上の内容をもとに、半澤家五代から八代までを下に系図化してみる。七代以降は人事興信録などによって、夫人の名や実家もわかるようになる。

 次の記事は半澤家の北海道美瑛開拓についての予定である。

 

 

 

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証

 以前の記事「旧出羽村と半澤久次郎(3) 代替わり 2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)」でおおまかにまとめた内容に誤認があることがわかり、さらに詳しい資料を知ることができたので、あらためて記事にする。資料の多くは国立国会図書館デジタルコレクションで検索し読むことができたものである。

 (12月19日、1月11日補記)

 

 半澤家の二代目(二祖)二丘安政三年(1856)一月に亡くなった。二丘は俳号で、名は亀吉のち久次郎である。交流のあった福島県須賀川俳人市原多代女が「二丘老人睦月廿六日なくなりぬと羽人子よりしらせに袖を」と書いている。羽人は四代久次郎為親の俳号である。

 二丘は従来、1770年生まれといわれたが(山形市史別巻2)、襖のまくり(下貼り)の「己酉七十二」という筆記から嘉永二年(1849)に72歳であり、逆算して1777年(安永六年)生まれとなり、没年齢は79歳と考えられている。

 『山形市史』の半澤久次郎に関する記述にはいくつか誤認があり、中でも別巻2生活文化編で二丘と為親を同一人物としているのは諸々混乱のもとになっている。二丘と為親は別々の法名があるので別人なのは明らかである。市史は出羽村役場結城善太郎の著述に依っているのかもしれない。

 山形市史には二丘には(男)子が無かったとある。二丘の後は弟の弥宗二(弥惣治、玉岱)が三代目を相続している。その代替りがいつごろかは未詳だが、当時は大体50歳を過ぎたくらいで家督を譲っているようなので、文政十年(1827)ころかもしれない。だが、弥宗二は天保二年(1831)になくなってしまう。まだ四十代だったろう。二丘が天保十年に高野山にその位牌を収めた時にはまだ院号がなかったという。

 弥宗二没時、その子亀治(為親)は19歳ほどなので、家督を継ぐには若い。隠居の二丘と母(弥宗二の妻(矢萩氏))が支えただろう。そのころ二丘は自分の娘を為親にめあわせる。従兄妹婚になる。しかしこの二人の間にも子が無かった。妻が若くして亡くなったのかもしれない。

 以前の筆者の理解では四代目亀治を為親と別人とし、爲澄の存在を知らなかったため、五代目を為親と誤認していた。

 

 四代目為親の「墓碑銘」全文を『東村山郡史 続編 巻2』で読んだ。この碑は漆山の浄土院境内の墓所には無く、離れた別の墓所にあるようだが確認できていない。

 その墓碑銘文によれば、(下線、朱字は筆者)

 「君諱為親通稱久二郎、羽前漆山之人、通稱彌宗二矢萩氏、君幼不喜嬉戯、年甫七歳從叔父矢萩某學」「天保十四年爲里正」「(明治)十年二月病没、享年六十五」「君無子養弟爲澄」「孝子爲澄建之」

 五代目は爲澄といって、養子で入った弟であることがわかる。為親は没年齢から逆算すれば、文化十年(1813)ころ生まれで、二丘が京都、長崎へ旅をした天保十年(1839)には27歳くらい、里正になったのは31歳くらいとなる。

 

 為親はいつ家督を譲ったか未詳であるが、やはり50歳ころであったとすればちょうど幕末期、文久~慶応のころになる。

 明治維新を経て為親、爲澄の時代の半澤家は、明治六年ころには半澤文庫(曵尾堂)を開く。『山形県農地改革史』によれば、この年立附米四千九百十五俵だったが、実際は六千俵に及んだと言われる。半澤家は江戸時代中期には立附米三百俵程度の小地主だったというが、「文政から嘉永にかけ、農業の傍ら綿商を兼ねていたが、商業に出ては各地の有力者と文化的な交際を結び、一般経済界の見通しを立て、綿商から転じて紅花を扱うこととし近郊から紅花を買集めて上方に売り出した。その計画が当たって資財を蓄え、その余剰資本を土地に投資することとし、一代にして立附米三千俵に増すことができたという。」二代二丘から四代為親の間に村山地方随一の大地主になったということである。地租改正の結果田畑の売買が活発化したためでもあろう。

 明治九年には三条実美大久保利通が立ち寄り(日記には「久四郎宅」とかかれている。この久四郎は爲澄だろう)、明治十二年には立附米四千俵余。四代為親、五代爲澄の二人が当主だった五十年間が、半澤家にとって最も安定した期間であっただろう。

 

 明治十四年(1881)八月、明治天皇御巡幸直前に急逝した久次郎(満52歳11ヵ月)は、従来為親と考えられてきたが、実は爲澄だった。その時の死亡診断書によれば爲澄は文政十一年(1828)十月七日生まれであるから、四代目為親との年齢差は15歳ほどである。なお、この時の診断書には住所が漆山百八十三番地と書かれているのがやや不審である。十四年の明治天皇御巡幸の諸記録では「半澤久三郎宅で御小休」とある。五代目爲澄の相続人は久三郎であり、これが六代目爲傳である。

 考えるに爲澄は半澤久次郎本家に近い血筋から養子に入ったのだろう。

 爲澄の妻キノは61歳のとき(明治27年)最上三十三観音巡礼を行ない、その時の小遣い帖が残っている。付き人の男性がつけたものである。キノが48歳の時、前述のように夫爲澄が急逝した。息子の久三郎(爲傳)は30歳。明治天皇の小休所に決まっていた半澤家は、直前に自宅で父の葬礼をして不都合がないか伺うが、かまわないということだった。兄弟三人助け合って天皇をお迎えしたという。

 

 六代目爲傳は明治三十三年(1900)ころには家督を「令息に」譲って悠々自適していたようだが、明治三十八年(1905)三月には洞翁と改名し、前年十一月に創立した会社「漆山倉庫」の持株をすべて相続人久次郎(亀吉、爲邦)に譲っている。なお漆山倉庫は金銭貸付、倉庫、運送業を業種及営業目的とした会社である。酒田の山居倉庫にならったものだという。

 このころ、久次郎家は北海道美瑛村の土地を貸し下げされ、開拓を始めていることがわかった。これが半澤農場(一時牧場)、今日の北瑛農場である。

 

 「官報 明治38年4月5日 第6525号 合資会社登記変更 一 合資会社漆山倉庫無限責任社員半澤久次郎ハ半澤洞翁ト改名ス  明治三十八年三月三十日 山形區裁判所天童出張所」

 「官報 明治38年4月19日 第6537号 合資会社漆山倉庫登記事項中左ノ通変更ス 一、無限責任社員半澤洞翁ハ其持分ノ全部ヲ東村山郡羽村大字漆山二千五百二番地家督相続人半澤久次郎ニ譲渡シテ退社シ半澤久次郎ハ之レヲ譲受ケテ入社ス  明治三十八年四月十三日登記 山形區裁判所天童出張所」

 

 洞翁爲傳は大正三年(1914)に63歳で没した。その後は七代目爲邦(亀吉)が継いだが、六代目との年齢差が17歳なので、兄弟の可能性も考えられる。

 ここまでを踏まえて下に系図化してみた。

七代以降については下記に続く。

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)
 

 

『羅振玉自伝』 満洲建国構想

 先日購入した東洋文庫『羅振玉自伝』(深澤一幸訳注)を読んで気になったこと。

 

 羅振玉は光緒二十七年(1901、明治34年)に教育制度調査のため日本を訪れている。1866年生まれだから満35歳だった。滞在は12月末から翌年2月下旬(旧暦11月から翌年正月)までの二か月間だったが、その間様々な場所に行き、いろんな人と会っている。

 その中に東亜同文会副会長の長岡護美子爵(熊本藩細川家十代の六男)との面会について書かれている。ある日、長岡子爵(満59歳)から華族会館に招かれた。通訳一人だけである。子爵は尋ねたい秘事があるので他人を呼ばなかったとして話し出す。

 

 引用開始(中略、下線、色文字などは引用者)

 甲午(一八九四、日清戦争が起こった)より両国が不和になったのは、東方の大不幸である。戦後、日本の国際地位はにわかに高まり、ヨーロッパ人の忌避するところとなった。そのうち必ずロシアと日本の争いがおころう。日本は領土が狭いので、勝てばいいが敗れるわけにはいかない。敗れれば滅亡し、勝っても大いに元気を傷つける。万一ついに戦端が開かれたら、貴国の東三省は両国の衝突の場になる。もし中国の国勢が強盛ならば、この緩衝地帯があって、日本は大いに庇護されるだろう。ただ貴国の国勢ではおそらくこの緩衝地帯を固持はできまい。両国が開戦すれば、日本はなんとか生き残るために、必ずまず貴国の中立を犯すだろう。甲午の戦役で、親睦はすでに一度損なわれたが、どうして再再損なうことができようか。だからこそ戦争を回避せねばならない。今ここに一策があり、特に君にご考慮ねがいたく、どうか一言助言してくださらぬか」…中略…「わが国はこのため元老・枢密院と前から協議してきたのだ。ひそかに思うに、変法は危険なことで、今中国は日日変法を言うが、その得失は一言では言い尽くせるものでない。いたってわかりやすい点からいえば、おそらく民情は不穏になり、国勢は不安定に転じるだろう。どうして貴国皇帝が近縁の王公の賢い者を選んで、奉天に分封し、満・蒙を合わせて一帝国とし、地利を開発し、各国の人材を高官に雇用し、これによって新法の試験場としないのか。変法して善かったなら、中国はゆっくり行っても晩くない。もし善くなかったら、経験として参考にできるし、国の根本まで損なうことはない。わが国は今まさにイギリスと同盟条約を締結しようとしておる。もし新国が建国されていれば、日英両国が国際会議を提案し、この新国を暫定的に局外中立とすることができる。ただ藩属国とすることはできぬ。種々の不便をもたらすだろうから。かくすれば、貴国は変法の危難を免れることができ、日本も日・露の戦争を免れることができ、実に両国有利の事である。この策は本会が提案したのだけれども、実はすでに天皇の同意を得ておる。もし公が善しと思われるなら、どうかひそかに両江・湖北の両総督に告げ、政府と協議していただきたい。しかしこれが誠意から出たものであると君は認めるかどうかわからぬが」。わたしはそこでその策が善く、意が誠なることを誉めそやし、「両総督に力説しましょう」と言い、「もし両総督が善しと思われたなら、必ず公と進め方について相談します。公は両江・湖北に来れますか」と尋ねると、長岡は言った、「よろしい」。わたしはそこで懇ろに今後の事を約束しあった。

 引用終了

 

 wikipediaによると、長岡護美はこの年5月から7月にかけ訪中し、南部の諸総督巡撫らと満州開放・領土保全について議論したとあるが、既にこの件についても中国側に伝えていたものかどうか。その案はもともと東亜同文会の会長近衛篤麿から出て、長岡に託されたものである。来日した羅振玉にまで話すとは熱意のほどが感じられるが、日英同盟の計画まで漏らされているのは秘事というにしては隠密性の面から危ういような気もする。あるいは策が深化した(満洲の門戸開放から建国案へ)のであらためて提示したのかもしれない。このへんの経緯はすでに研究されているのだろうが寡聞にして知らない。

 羅は帰国して劉坤一(両江総督)、張之洞(湖広総督)に報告した。彼らはすでに数か月前長岡と内政改革・ロシア対策について会談していた。両総督はひそかに長岡を招かせたが長岡はこの後病気になり中国へは行けず、代わりに近衛篤麿が行った。武漢で話し合いが行われ合意がなされた。しかし北京の永禄西太后側近の満洲人、その娘は溥儀の母)に打診したところ了承されず、そこで沙汰やみとなったという。劉も張もすでに高齢で、まもなく他界した。

 

 日本はまだ朝鮮併合に至らず、満州事変はさらに三十年後だが、この時期からすでに一部日本人の中には後年の日本による満洲国建国につながる遠大な構想があったということなのだろうか。清国側も同調するような、なかなか面白い東洋平和、対ロシアの構想ではないか。実現していたら歴史はずいぶん変わっていただろう。

 しかしこの前年、1900年の北清事変(義和団の乱)以後、東三省(奉天吉林黒竜江の三省)はロシアに占領されていた。もちろん、アムール川以北は1858年の「アイグン条約」で取られ、遼東半島は1895年の「三国干渉」以後ロシアの租借地となっており、ロシアは南下し続け満洲に勢力を広げていた。当時の満洲にはロシアが軍政を敷いて、容易に撤兵しなかったのだ。その撤兵交渉の最中だから、満洲族の王公が満洲に建国するなど実現困難なことだったと思われる。

 

 この後の政治状況の変化を大雑把に復習してみる。

 

 義和団は1900年6月北京に侵攻、各国公使館は包囲される。日本、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、イタリア、オーストリアハンガリーは連合軍を成して解放に向かう。清国はこの八か国に宣戦布告するが、8月になって北京は八か国連合軍が占領。西太后は北京を脱出し、西安まで蒙塵した。いわゆる「北京の五十五日」であり、その実際は芝五郎中佐の『北京籠城』(東洋文庫)に詳しい。

 清国が義和団弾圧に転じたため義和団は瓦解した。この間、張之洞と劉坤一は西太后の命令に反して義和団を討伐し列強を保護する「東南互保」を行った。 

 1902年「日英同盟」、1904~05年日露戦争の結果ロシアが満洲から撤兵。結局日露の対決は避けられず、互いに数万の犠牲を払うことになった。

 清国は膨大な賠償金に苦しむ。そのツケを民衆に転嫁したため、ついに1911年「辛亥革命」が起き、宣統帝溥儀は退位、南京に「中華民国臨時政府」が誕生する。一方北京の政府も存続し、紫禁城には溥儀が住み続けており、ようやく1913年になって日本を含め列国が「中華民国」を承認した。その後、袁世凱の帝政、北洋軍閥の支配が続き、南方では孫文が数次にわたり「広東政府」を立てる。一つの政府の下に全土が統一されない混乱した政治状況が続いた。1928年には満洲軍閥張作霖が爆殺され、その子張学良が易幟して蒋介石の北伐が完了したが、翌1929年にはロシア革命で成立したソ連が東清鉄道利権問題にかこつけて満洲に軍事侵攻、中国軍と衝突する(中ソ紛争、中東路事件)。中(政府と軍閥)・露・日、三つ巴の勢力争いの中、再び露が南下し朝鮮半島への脅威が迫る状況で、ついに1931年満州事変が起き、関東軍満洲全土を占領。中華民国から独立して「満州国」を建て溥儀自身が満洲国執政となる(後に皇帝)。

 このとき羅振玉は溥儀に代わって外国来賓に挨拶した。清朝の忠臣であった彼の心中はいかばかりであったか。彼は68歳で満洲国の参議府参議となり、叙勲一位、満日文化協会会長などをつとめた。1940年、74歳で没。

 

 満洲は長らく封禁の土地とされ漢人の入植を禁じていた。一方満洲族は中国に移ったため、人口空洞化していた。しかし1860年ころから封禁が解かれ移民を奨励したため、主に河北から、また山東半島から大連に向けて人が移動する「闖関東」が進み、満洲事変頃には数百万人が移り住んでいたと言われる。日本人が入植するのは満州事変以降である。

江戸時代農民の年貢は五公五民?

 2023年10月17日、有本香と百田尚樹によって「日本保守党」が結党され、数日後に名古屋と東京で街頭演説があった。その中で百田尚樹代表が言っていたことでちょっと考えたのだが、要するに、日本の江戸時代の農民は五公五民の重い年貢で苦しんでいたと言われるが、百姓が食わない分の米を誰が食っていたか。実際には百姓にもさまざまな形で還流していたのだ。というようなことだった。

 現在の日本国民の税負担率はこの五公五民に近く、江戸時代よりも厳しいという話。

 

 当時人口の八割を占める百姓がみんな米を食うや食わずにいたとして、その分の米が最終的に大阪や江戸に集まって、扶持米になって幕臣や各藩の江戸詰めに、町の米問屋に渡って町民の腹におさまったのか?

 たしかに、江戸時代三千万人の人口で三千万石の収穫量は一人一年一石(一日三合)であったとして、百姓が米を食わない分は町民や武士が五合も六合も食っていたということになるかもしれない。しかしそれでも、町民や武士の人口に占める割合はごく小さいから消費しきれなかっただろう。

 この疑問は当然のことで、実は幕末には年貢の高が相対的に低くなっていたのだ。五公五民が表向きでも、検地がなされないために(公許の下で大規模な開発をすればその分は検地したが)、開墾された田が増えても、収穫増が表に出なければ、相対的に年貢割合は少なくなってゆき、自家消費する分が増える。田にせずに畑で商品作物を作れば現金収入ができ、それで米を買うこともできる。その結果、幕末には実態は二公八民くらいになっていたらしいのだ。

 明治末頃の「おしん」のような貧窮農民は、地租改正によって米本位から完全な貨幣経済となった社会の中で、依然として米を小作料として地主に収めなければならない小作農民が、自然災害による凶作、飢饉に襲われることで借金に追われ窮境に陥ったのだ。

 

 次のホームページがたいへん参考になります。

江戸時代の「年貢」は重かったのか? | 日本近現代史のWEB講座 (jugyo-jh.com)