『JOY TO THE WORLD~上田美和、作「トシドンの放課後」より』⑤

 公家、皆川両氏に続いて県大会の講評。

 近藤信司 氏
 演劇を作るということがどういうことなのか、ということに対する山形西高校の回答を見せていただいたように思います。

 「演劇を作ること」の最も優れた点は「正解が無い」ということだろうと私は考えます。
 目指すべき極北もそれぞれに違っており、そこに辿り着くための方法ももちろんそれぞれであり、したがって出来上がるものもそれぞれに違っていて、ということなので優劣をつけることには全く意味がない。
 これこそが演劇の良いところだろうと考えています。

 この作品は「今年の山形西高校はこのような手法で演劇を作る。」(あるいは「作った。」)という宣言だと受け止めましたので、ここに何らかの講評を加えること自体が皆さんに対して無礼なことだと思います。理路から申し上げると、これ以上この文章を続けることはできません。
 が、かろうじて「私がこの作品を好きかどうか」については、述べることが許されそうですので、その方向で話を続けたいと思います。

 私はこの作品を好ましいと思って見ていました。
 私は演劇を「人と人のやり取りを生で見せるもの」だと認識しています。生の感情が「やり取り」されているのなら、物語も不要かもしれないと思うほどです。
 そういう意味では、この作品には生の感情のやり取りがあったと感じました。

 あれを台詞だと考えれば、膨大な量の台詞ですから、たくさんの練習量が背後にあって云々、という方向に本稿が進むのでしょうけど、私はそういう風には考えません。
 ああ、この人たちは本当にこのように綿密に綿密に妥協無く話し合いを重ねて舞台を作って来たんだなぁ、とドキュメンタリーを見るように見せていただきました。

 私は高校時代、登山をする人だったのですが、山を登っているときは、まったくこういう感じです。右足を出して、左足を出して、濡れた木の根があれば避け、ぬかるみの中は小幅に歩き、後ろを行く人に声をかけ、ただ、ただ、右足と左足を交互に出すだけです。そこに分かりやすい起承転結はありません。でも、生きていくということはそういうことだし、舞台を作るというのはそういうことだろうな、と思います。
 皆さんの舞台にはそれと同じ質の説得力があったと思います。
 細かいところと大きなところを行ったり来たりしながら、地道に丁寧に作っていく。そういう皆さんの姿を好ましいものだと思って、一時間、ただただ、見ていました。
 個人的には「トシドン」は「“ぎを言うな”からの5分」のために、1時間があるのだと思っているのですが、そこにフォーカスするためには良い手法だったろうと思います。
 最初と最後の「あかねと平野」の場面は、私は逆に、無くても良かったと感じました。あれがあることで、優しさが出た舞台になったと思いますが、無くても十分に成立した演劇であったと思います。

 蛇足ですが、上手側に座っていたスタッフの皆さんの演技が素敵で、レンブラントの「アムステルダムの織物組合の見本調査官」みたいに見えました。

 見せていただき、ありがとうございました。ある種の衝撃と感銘を受けました。
 私は好きです。

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