ロボットが演技できるかどうか考えてみた

 プログラムされた動き、台詞を正確に行うだけならロボットは人間以上にできるであろう。しかしそれは、単なる再現でしかないのではないか。演技は再現か。
 プログラムでなくAIであれば、周囲の状況に反応して微妙な変化を付けることも出来るだろう。相手の台詞の微妙な差、間の違いに反応して自分の台詞、演技を変えるということさえできるかもしれない。それは人間の役者のやることと同じではないか。ではロボットも演技可能なのか。
 ロボットと人間の役者の最も大きな違いは「感情の有無」ではないだろうか。
 AIによる舞台での対応は、彼自身の内発的な感情によって起きたものと言えるだろうか? 彼自身の迷い、悩み、喜びなどが伴っているだろうか?

 ロボットが、声も表情も自在に無段階に変えられるとして、AIは役者たり得るか。つまり逆に言えば、(人間の)役者にとって本質的に不可欠なものは何なのか。

 歌舞伎役者の名優が、観客に背を向けて泣いている演技をし感動させながら、見えない顔ではあかんべえをしてみせると言ったとかいうが、そういう芸当ならロボットでも出来そうに思える。しかしそれは、CGが人間の演技をトレースするようなものではないか。それを「演技している」と言えるだろうか。

 AIが何年も学習し続ければ、それこそ何十年も人間を相手に学習(修行)し続ければ、人間同様の演技ができるようになるだろうか。

 肉親の情などというものを知る実体験の欠如(ロボットは結局のところ生物ではない)は如何ともし難いのではないか。

 それではアンドロイドが人間の生態に限りなく近づいたとして、喜怒哀楽に応じた人間の微細な身体反応(涙、震え、興奮、脱力など)を再現できるようになったとして、その反応におそわれるアンドロイドのAIが、感情を持ったと言えるだろうか。「人間は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という問題に立ち返るわけだが。それは人間についても言えるわけだが、感情を生理的反応に還元して良いものかどうか。

 アンドロイドが、生理的なものを超えた心理、倫理、宗教的信念といったものにまで到達するにはいったい何年かかるのだろう。それまではロボットの「演技」は操り人形の芝居と大差ないものでしかないのではないか。