また映画の話

 「ミラーを拭く男」 2003年公開 脚本・監督、梶田征則  緒形拳栗原小巻、他。

 軽微な交通事故を起こした60歳の男(緒形拳)が、被害者側の強圧的態度に嫌気がさしたのか会社にも行かなくなり、やがてカーブミラーを拭く行為に出る。妻(栗原小巻)は、夫がどうして30年勤めた仕事をやめ、退職金を棒に振るのか分からない。男も何も説明しない。
 事故現場のミラーの裏には名前が書いてあった。それはそのT字路で事故死した少女の名前で、祖父(大滝秀治)が立てたのだった。それを知った男は、突然、妻子にも知らせず単身北海道に旅立ち、自転車と脚立を買い、北端の町からミラー拭きを始める。そして3年間。テントで野宿しながら全国すべてのミラーを拭こうという彼の行為はテレビ会社の取材を受け、多くの人の知る所となる。
 いろいろあって、ある日東北地方でミラー拭きの最中に事故に遭い、家族が病院に来る。でも男は家に帰らず、ミラー拭きを続ける。最後に、妻が自転車で男の元にやって来て、二人は一緒に走り去り、唐突に映画は終わる。結局、主人公の内心は語られず、周囲の解釈だけが流れていく。
 北海道、東北の自然、四季が美しい。

 
 緒形拳が主役なのだが、ほとんど台詞がない。「いやー…」とか「実は…」とかばかりで、意味のある言葉が出てこない。具合が悪いんじゃないかと心配するくらいだ。台詞がないから、見ていると役者でなくても出来そうな気がしてくる。昔、たとえばエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」では神父の役に、見た目だけで、ド素人をあてたとか。もしかしたら役者に見えない線を追究したのかもしれないと思うくらいだ。

 60男の迷いという言葉が出てくるが、昔々は「四十而不惑」だったから、最近は寿命が延びたものだと思う。ただ、そののび方はゴム紐を引き伸ばすようなものだから、人間が成熟するまでに相当時間がかかるようになっているのだろう。さて自分も定年を過ぎているが、迷っているのか。


 メイキング映像の中に、高校生役の女の子に緒形拳が演技指導する場面がある。監督から少し指摘されているのを横で聞いていた緒形。たまらず台本を取るとその子に説明し出す。

 「監督が一本調子だって言うのはね、台詞のこことここでは全く別のこと、別の感情でしょ。4回くらい感情をぱっぱって切り替えてるんだね」
 「(自転車で坂を)上りながら言ってみようか、下りだと勢いで流れてしまうよね」
 「まず歩いて言ってみようか」
 「ここでUターンして近づくか」
 「距離が変わると声の大きさも変わるでしょう」
 「距離と台詞ってすごく関係あるの」
 (記憶で書いているので不正確な引用です)

 高校演劇でやっている演技指導と同じだなあと思った。しかし、こういう風に言われて、すぐに変われる子もいるが、全く変わらない子もいる。そこが「才能」なのかも知れないとも思う。
 役者は役に同化するのが面白いというようなことも言っていたが、プロならではの言葉だろう。