県大会直前

 いろいろあった、の続きだが、この2ヶ月に従兄弟の配偶者が二人亡くなった。いずれも夫の方が残された。同じお寺なので、同じ坊さんが葬儀を行った。まだまだ人生これからだろうに。
 
 
 県大会が目前で、練習はもう明日しかできない。昨日今日は演出の子がどうにも違和感を拭いきれないでいる場面を見てみた。演出の不満は分かる。しかしどう言っても役者が変えられない。演出の苦闘の中から、自分でも意識できなかったものが見えてくる。そうかここかもしれない。
 この突破口が閃くまでが大変なのだが、岡目八目で、自分だけでは分からないが、よその演出を見ていると分かったりするものだ。
 昨日の地区演劇教室上演劇団(わらび座)の生徒講習会で、この役の子が意外に大きなはっきりした声で台詞を言っていたのを思い出したのだ。今回の役はほんの短い会話しかないのだが、途中で強さを急に変えることでその役の心理をぐっと深めることができそうに思った、思いついたのだ。そうすると相手役も感じるものが変わってくる。
 
 昨日は別の場面で、ぼそぼそしていたのを無理やりテンポアップさせ、声の調子も高くさせ、全体のテンションを上げさせた。以前は絶叫大会と言って、盛り上がらない場面では無理やり限界まで大声で会話するという方法でテンションを高めていたのを思い出したのだ。また動作として心理表現できない所は、形から入らせる。
 こんなことで、行き詰まっていた場面をいくらか打破できたのではないか。
 
 しかし演出に終わりはない。どこまででも細かく深くできそうである。でも時間がない。人の上演を観て、自分ならこうするという考えは意外に簡単に出てくるものだが、創作はモデルにできる先行上演がないため、本当に手探りで作っていかなければならない。それに、やっているのがみな素人なものだから、とにかく時間がかかる。
 
 脚本を書いているとき自分がイメージしていた台詞の言い方はもう忘れてしまっている。今では役者が作りあげた言い方が本来の物のように感じられるからだ。そして役者が表現したものから、作者自身の本来書きたかった、書くべきだったことが見えてきたりする。
 高校演劇の作品は、顧問が脚本を書いていても、それを芝居にしているのは間違いなく生徒である。
 
 
 18日(土)の昼過ぎ、東根市さくらんぼタントクル・センターで、『さくらながるる』三度目の上演をします。ぜひお運びください。入場無料です。審査員のお一人は北海道の米永先生です。