雑感20180928

 演劇鑑賞会の「『女の一生』を語り継ぐ」という企画をみた。文学座鵜山仁さん山本郁子さん、上川路啓志さんが舞台上でトークセッション。楽しい会だった。
 前半、お二人による『女の一生』の部分リーディングもあった。さすがにプロの役者さんは上手い。16歳から58歳まで一瞬で変わる。こうでなければお金は取れないのだなあと嘆息しきり。生前の杉村春子を知らない世代が文学座の役者になっているというのも、時の流れをしみじみ感じさせるが、昭和20年4月の初演から73年後の今も上演され続けていることに「継承」と言うことの意味があると言っていた。シェイクスピアの作品は400年以上、世界中で演じられ続けている。人間というものの本質が描かれているのだから、人間が(進化の果てに)変質しない限り、これは残るのだろうという話。
 演出家鵜山仁さんも初めて生でみた。演出家が役者と一緒に舞台に立つことは無いので、そばで台詞を聞いていると、迫力が伝わってきて緊張感があったとのこと。稽古場では同じ平面で聞いているのだろうが、舞台の板につくとまた違うのかなと思った。



 先日、市民会館で観た舞台について。昨年は観ていないのだが、「演劇大学」の何らかの成果発表になっているのだろう。役者はほとんどが地域内劇団に所属していて、舞台経験もある若い人たちだった。
 市民会館の舞台上に客席を組み、サス、シーリングを使って小劇場風にするというやり方はよくあるが、ここは間口が広いので、4~5間のセットに対して30席も並べると端の方は見づらいかもしれないと思った。でもたくさんの入場者で賑わっていた。セット部分には黒いパンチカーペットが敷いてある。これで食堂を区切っているが、役者が外に出る時があってびっくりした。背景は中割幕、袖幕は狭めていない。転換には白紗幕を下ろす。その前でも芝居がある。

 脚本は、韓国の作者の、光州事件を題材にしたコメディだった。この事件はもう38年も前になるのか。金大中拉致、朴正熙大統領暗殺、全斗煥軍事クーデターなど、騒然としていた時期。庶民の目から見た光州事件、ということか。学生・市民対軍隊という状況で、一市民(家族)がどのように巻き込まれていったか。
 ミニ六四天安門事件という感じだが、北京の学生と違って光州市民は銃器で武装したから、軍隊との銃撃戦になった。日本のように軍隊の治安出動を極端に嫌う国は警察機動隊で対処するが、それがなかった国では悲惨なことになり、その反省から軍隊とは別の治安部隊を充実させるようになった。(中国では「武警」)

 今回の芝居ではこの間のエスカレートがどのように進んだか、今一つ分からなかったが、知人・家族が傷つくことで激情に駆られていく様子は伝わった。
 パンフレットの解説にあるが、「アカ」「古参」という言葉さえも説明しないと分からない世代が観客に多いという前提なのか。(「防衛」は「民防」のほうが適当な気がする。あと朴正熙の振り仮名がパクヨンヒだったのは単なる誤記か)
 いずれにせよ、38年前の韓国のことを、70年安保の学生運動すら体験していない現在の日本の若い世代が舞台化するというのは、それだけで難しいことだと思う。
 さらに、台詞を山形弁で言う趣向が加えられたが、その台詞が必ずしも、地方都市的な雰囲気を醸し出すとか、より観客に身近に感じさせるとかいう効果にはつながらなかったように感じた。それは、おそらく翻訳者や役者の方言体験が、卑近な日常会話のレベルにとどまり、台詞のレベルに至っていないからではないか。粗雑さや乱暴さが先に感じられてしまったのは残念だった。
 (粗雑といえば、最初の方で麺(本物)を坊さんの頭にかける場面があるが、床に盛大にこぼれた麺を食器の丼に手で集めて入れていたのは、台本通りなのかもしれないが、どうも自分などには違和感があった。個人的な感覚なのでしょうが)

 皆さん熱演でしたが、演劇大学の成果が何だったのか(横のつながりができたということか)、演劇的に(演出・演技において)何か新しいことを学べたかというと、あまりなかったというのが本音です。(高校演劇に長く関わっている間、数多くのWSや講習会、演出家や役者の指導と成果を見てきた身からすると、ということですが)
 翌日、他にも成果発表があったのだが、法事のため見ていないので、そこでは違ったかもしれません、念のため。