啐啄同時

 今日午後の北門の桜、ほころびかけている。
 
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 12時から初めての通し。およそ1時間45分。105分の内、前半90分はドタバタ喜劇のようであるが、あるカタストロフィーがあって、その後の15分は一転して深みを帯びてくる。
 
 この後半(というかラスト)が昨日まで上手く出来なかった。今日午前中の場練でも出来なかった。
 場練の前に演出が別の場面のことだったが相談に来たのでいろいろ言う。少し後にキャストにも言う。
 この物語が伝えたいものは何か。最後の場面で、台詞に表れない(「…」で書かれている部分)内心の言葉を考えなければならない。それが出来て初めて、含み・厚み・深みのある演技になり、芝居が立ち上がる。その場面での役柄になって想像力を働かせてみよ。その時の思いの深さが感じられたら、その感情をドッと注ぎ込むのだ。感情が激して泣けたなら泣いても良い。
 いろいろ説明して、キャスト陣も理解が進んだようだった。
 
 通しは良い出来だった(前半はウトウト眠ってしまったが)。初めての通しとは思えなかった。少し感動してしまった。いっしょに見ていた副顧問のM先生は前日の場練から格段に変化したことに驚いていた。一日で、あるいは一瞬で劇的に変化する。これは啐啄同時というもので、生徒がどう演じるべきかに悩み、壁に突き当たって苦しんでいるからこそ、アドバイスが浸透するのだ、と実感する。
 
 脚本には、生徒にとってなかなか読み取れない部分がある。年齢、経験の足りないせいもあるし、他の作品(文学、映画、舞台)に接することも少ないため、人間理解が浅いせいである。そこを噛み砕いて説明し、新しい理解を開くことが必要だ。
 
 装置、今日は廊下で作業。
 
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