山形東高「隧道」小論

 いずれ誰かがこの作品の劇評を書くのではないかと思う。それで、自分の初期の感想をここに書いておきたい。これからこの作品がどのような感想、批評を受けていくかは分からないが、この作品の特徴を、この時点で、書き留めておきたいと思った。もしかして、もしかしてだが、ブロック大会を超える力を持っているのではないかと感じるからだ。より多くの人の目に触れてほしい作品である。
 実は地区大会で観てそれほど感動しなかったし、県大会ではモニターでしか見られなかったのだが、何か自分の頭にヒットしてしまったようなのだ。

 
 これを「交換部品」と同様の、社会の中で疎外される人間という問題の捉え方で見るのは、書かれた時代が離れていること以上に的外れであろう。
 作者は東北でも有数の進学高校の生徒であり、主人公である高校教員の生活が、彼自身の体験であるわけはない。(ホワイトカラーであれば何の職業であっても良かったのだろうが、最も身近な大人が教師だったのだろう。)
 ここにあるのは、不倫をする妻との言い争いなどが描かれてはいるが、作者自身の生活体験から出てきた苦悩ではない。10代の男子高校生の苦悩である。もっと言えば、冒頭に出てくる中原中也のように、大切に育てられ、働いたことのない坊ちゃんのような立場からの世界観なのだろう。彼にとって一般大衆は、昼休みの丸ビルからはき出される(出てくるわ出てくるわ)サラリーマンのようななじみのない非人間的なものではあったろう。
 その意味で、前顧問土田真一が描いてきた世界とは似て非なるものとなっている。たとえ、折りたたみ椅子を使うモブシーンが似ていたとしても。
 
 主人公が強制的に掘らされる隧道は、出口も無く、完成予定もない。隧道の掘削現場にいる人々は「非現実」の存在である。徒労と思われる作業に従事する人たち。彼の自由意志は完全に封じられるわけだが、そもそも劇中の「現実世界」である職員室において彼の自由などあったのだろうか。彼はシジフォスの神話のような徒労の罰を下されたのか? 何の罪で?

 主人公は、結局この隧道から離れ(られ)ない。なんとなれば、こここそが彼の居るべき場所だからなのではないか。
 
 一つの見方として、この隧道を包む岩盤は、外界(社会)の象徴なのではなく、彼自身の内面の象徴なのではないのか。自分というアイデンティティーの模索。仁王の木像を彫るのは、木材の中に既にある像を取り出すようなものだというが、「自己」もまたそのようにして見出すべき物かもしれない。
 学校の勉強などに駆り立てられながら目まぐるしく過ぎて行く日常の中で、本来外側から掘り出すべきものが、内側から掘り崩されて行くような焦燥感、とでも言ったら良いか。
 人生は徒労であるか? 何か成し遂げたい夢や使命感があるわけでもなく、どのように生きたら良いのかが分からない、漠然とした不安。ラジオから流れ出る音楽が唯一の救いになる。
 
 未熟な少年の心(「とまどい、不安、焦燥感」、「救いへの希求」など)が表現されているからこそ、そこにリアリティーが生じ、どこか清冽な感じを与えるのではないか。
 作者がそれを表現し得たのは、すぐれて柔軟な身体感覚と感性の持ち主である、主人公を演じる役者の存在による。作者と役者が奇跡的にそろった結果だったろう。