山形演劇鑑賞会第336回例会

 劇団民藝 「カミサマの恋」 作、畑澤聖悟 演出、丹野郁弓
 平成25年4月8日(月) 18時30分開演 20時38分終演(カーテンコール含む) 途中休憩無し
 山形市民会館大ホール(キャパ1200)
 
 以下、感想ですが、ネタバレになりますのでご注意ください。
 
 緞帳開いている。奥に大きな壁。幅3間半くらい、高さもそれくらいある。これは紗幕になっている。上は雪の積もった屋根で、つららが下がっている。その下に5色の幕があり、大きな神棚が祭ってある。その下に太陽と海の掛け軸。両脇に巨大なタツノオトシゴ狛犬のごとく控えているが、頭に蝋燭(電灯)が立ててある。オシラサマのような物体が2つ。机の上には三方など。太鼓。腰掛け。
 壁の前は尺高の台(間口2間半くらい?)に畳(5畳くらい?)が敷いてある。座布団。前に降りる階段が上・下にある。手前は板張りの床にソファ、テーブルのセット。周りが廊下の設定。その外側は黒いパンチ。雪で白くなっている。下手が玄関。上手が奥の間。出入りは主として奥の両袖から。
 上・下に板壁と格子と屋根。上手の壁の裏にも登退場する。
 舞台端にマイクが2本。センターを示す赤いLED。
 
 照明はSSが強い印象。1サスにいっぺんにたくさんの灯体が点灯。手前の芝居になると前明かりが入る。人物にはピンスポットのフォロー。暗転中も薄く明かりが入って、人の動きが見えるようにしてある。暗転中も演技している。ラストシーン、壁を透かしてたくさんの灯籠が現れる。紗幕後方にもう一つ壁があって灯籠が取り付けてある。
 
 奈良岡朋子の青森言葉(津軽弁というのか)は良い感じだった。「~したはんで」、「まいね」、「けっぱれ」等々。何度目かの生奈良岡(失礼)だが、いつも安心して芝居に入り込める役者さんだ。カーテンコールでの声と劇中の台詞とではずいぶん違うので驚く。山形演劇鑑賞会50周年のお祝いを述べていただいた。観客は総立ちでこれを聞いた。
 他の役者さんたちも良かったが、特に青森のばあさんたちが出色。いますね、ああいう人。 
 
 終演後のバラシを手伝う。さっきまで芝居していた若手の役者さんもバールを持って作業している。前回の「赤シャツ」よりは簡単であった。こういう手伝いをすると、装置作りのノウハウが分かって楽しい。
 
 津軽のカミサマは、イタコと違って仏下ろしが主たる仕事ではない。神さまの言葉を伝える媒介者である。地域の人々の様々な悩みをすっぱりと解決してくれるありがたい存在。しかし、何も神秘的な事ではなく、今風に言えばソーシャルワーカー、カウンセラーのようなものである。人が言うと思えば聞きたくもないが、龍神様のお告げとなれば権威もあり、その不偏・公平であることは信頼に値する。神が降りるというのは儀式(方便)に過ぎない。皆、分かっているのだ。先人の知恵なのかも知れない。
 
 カミサマは人のために一心に祈るが、自分のために祈ってはならない。しかし、「神」の力を自分のために使ってしまうこともある。その結果、事態は混乱を増すが、それも「神」の力で収めることが出来る。
 
 カミサマの道子は、若い時、結納まで交わしながら恋する相手と死別した悲しみに自分も死のうとした。そのとき先代のカミサマから、「お前は死ぬ気だな。だが死んでも無駄だ。お前の相手はあの世にはいない。この世に生まれ変わっている。」と言われる。捨てられた赤ん坊を恋人の生まれ変わりとして育てるように言われたのだ。大きな悲しみを背負った者が、人の悲しみをわかってやれるのだという。
 
 いろいろな相談事に対処するカミサマ。それを見ていると、どこかでこんなことを見たような気になってくる。つまり世間にありふれた、自分にもなじみ深い悩み事ばかりなのだ。そうしているうちに「デジャヴ」という台詞が出てくる。息子を救うためにカミサマの作った、彼の亡くなった妻の生まれ変わりだという嘘を自分で信じ込んでしまう女性。記憶のすり替えというか、自分が他者の記憶を持つということが自然に感じられている。人は先祖の遺伝子から出来ているのだから、何かしら生まれ変わりの側面を持っているわけで不思議はないのだが、そのことを自覚するかしないかでずいぶんと心の持ち方は違ってくる。自分は自分であって、同時に我が先祖であり、我が子孫である。そういう意味での既視感がこの作品には色濃かった
 
 自分にとっての一番の既視感は、「みちこの恋人が消防団員で、人命救助の際に殉職する」というところであったが…。