春の気配

 春めいてきた。空の色はすっかり春だ。積もった雪も溶けて沈んできた。屋上を見ても、ひと頃よりは1尺も低くなっている。表の道路は除雪され地面が見えるが、小路の方は氷になった雪が残っていて、7~8寸の段差になっている。
 鼻水が止まらないのは風邪か? 早くも花粉症なのか?
 
 
 演出ということを考えてみる。
 
 先日の他地区の生徒講習会を振り返ると、プロの俳優H地さんや、顧問OBのS野先生は別にして、講師になった地区の先生方は明確な演出プランを持たずに臨んだのではないか。「生徒の自主性に任せた」面が大きかったのではないかと思われる。そうだとすれば、失礼ながら、おそらく生徒にとって講習の実はさほどなかったのではないかと思う。
 
 いくつかの班では、少数の役者が自分のキャラクターを強く出し、受けていたが、これは演出とは無縁なことである。演出とは複数の役者の演技をまとめあげ、意味ある時間・空間を生み出すことだからだ。
 役者たちが誰かに向かって叫び、動き回っていても、全体としてこの場面は何をしているのか(何が言いたいのか、伝えたいのか)全く分からない、というのが最も手に負えない。
 
 生徒は台本の台詞を読むが、意味は深く考えない。たとえば、「チェーン、開けて、ここまで。時間は?」という台詞。多くの班では「チェーン開けて」と言っていた。ここはもちろん「チェーン(を外して)、(ドアを)開けて」の意味である。
 生徒が台詞から読み取るのは、「強い感情だ」、「悲しい感情だ」などという程度でしかない。それで演じた気になっているから、全体が深みのない芝居になる。また、劇的な構成というものに思い至らないから、前後の関わり、山と谷、演技の変化というようなことも表現できず、芝居は失速していく。
 
 このように、普通の生徒は演出というものの実際を知らないので、巧みに演出された他校の上演を観てすごいと思っても、どこがすごいのか、なぜすごいのか、どうすれば自分たちもすごい芝居ができるのかわからない。これは指導者が教えてやるしかない。教えてもらって分かれば、生徒は目から鱗の大きな達成感を得るはずだ。そこがこの講習会の肝ではないのだろうか。
 
 発表の後に、講師が自分の演出意図を説明するという時間をとっても良いのではないか。こういう理由で(脚本分析)、ここにこんな工夫をしました、と言われれば、生徒も「ああ、そう考えるのか、そうすればあんなふうになるのか」と納得するのではないか。
 もっと声を大きくとか、役者かぶってるよとか言うばかりが演出ではない。脚本の意図するところをくみ取り、具体的な形に表せるように役者たちを納得させ、「演技」させるのが演出ではないのか。