日本人の平均年収  衆議院東京15区補選候補者討論会から

 衆議院議員補欠選挙の東京15区に9人の候補者が立候補し、告示日に「立候補者討論会」があった。ネットで視聴した。立憲民主党の候補者は欠席だった。なお、一人は選挙期間中にヒマラヤに行くということで、どういうつもりで立候補したのか全くわからない。

 NHK日曜討論(「Sunday Debate」と称するが全然ディベート形式ではない)のごとく、各自がほぼ嚙み合わない言いっぱなしだった。高校生が大学入試のために練習してきた面接のような話し方の候補者もいた(自分は随分と面接の指導をしてきたからよくわかる)。国会議員になるのと大学入試や就職とでは全く違うと思うのだが…。

 

 中で日本保守党の候補者が国民の平均所得を他候補たちに問う場面があった。これに対し、一人が「477万円だったか…」と答えたが、他は声無しだった。発問者は「230万円です」と言った(今、金額や言葉など正確には思い出せない)。(正しくは「238万円」のようです)常識的には450万円程度と知られていると思ったのだが、このことで疑問を呈したり訂正しようとする他候補者もいなかったし司会者も流していたと記憶する。

 調べてみた。ある資料では、日本人の平均年収445万円(内訳、給与369万円+夏冬賞与平均額 76万円)とあった。まあ大体そんなものだろうと思ったが、さらに「中央値」をみれば、年収396.7万円という数値があり、この方が庶民の実感に近いだろう。

 では「230万円」「238万円」という数字はどこから出てきたのだろう。

 給与所得者の平均所得は今見た通りだろうが、無収入の人(子供など)もいれた国民一人当たりの金額ということではないかと思った。

 

 それで世帯当たりの統計をみてみると、厚生労働省「2022(令和4)年国民生活基礎調査の概況」【一部抽出調査】は下記のようになっていた。

 一世帯平均年収    545.7万円(2021年)
 世帯数        54,310(2022年)
 世帯人数       2.25人(2022年)

  単純に割った一人当たり年収 242.5万円

 

 また別の資料では、

 日本人の世帯年収  552万円(2018年)
 世帯数       55,705(2020年国勢調査
 世帯人数      2.21人(2020年国勢調査
  単純に割った一人当たり年収 249.7万円

 

 勤労所得(給与所得)のある人が一世帯に何人いるか。共働きに無収入の子供という世帯も多いのだろうが、単純に一世帯の平均人数で割ると、一人当たり収入は242.5万円とか249.7万円になる(3年間で7万円減っているようだが、正確に対比できるかはわからない)。年度によって、また調査範囲によってこの数値は変わるので、230238万円程度の数値が出てくる資料もあったのかと思う(今その資料を見つけられないが)。

 日本人(老若男女問わず)一人が一年間を240万円ほどで生きているということになるが、これは単純な平均値であって、中央値から計算すれば、200万円を少し越えるくらいになるかもしれない。

 さらに年金生活の高齢者夫婦の収入は上記の統計には入っていないだろうが、厚生年金と国民年金で月26万円(年収312万円)くらいだろう。しかし、実際にはここから社会保険料や税金が10~15%引かれるので、実質年収270万円程度になる。これを二人で割れば135万円。貯金を崩しながら生活しているのだ。決して若い人と比べて楽ということは無いのがわかるだろう。まあ、若い人が親世代と同居せず、住宅ローンなどを抱えれば別だが。

 

 こうして見てみると、意外に「国民の平均収入(所得)はいくらか」というこの発問は、「平均年収」という言葉・数字を、単なる数字として知っているかではなく、国民の生活実態と結びつけてどう認識しているかが問われたものだったのではないかと思えてくる。実際の議論はさっぱり深まらなかったけれど…。 

 

 暇なので毎日youtubeなど見ているが、他候補に対する選挙妨害の為だけに立候補したとしか考えられないゴロツキのような者が好き放題に暴れまわっている。なのに、警察が介入しない、できない現状は、民主主義の根幹である選挙の自由を脅かす非常に憂うべき危険な状況だと強く思う。選挙管理委員会検察庁も真剣に考えるべきだ。

 幸に、日本保守党の場合は、聴衆が一丸となってこのならず者に対し候補者を護ろうとしている。胸熱くなることである。

銅町 組と契約 その2

 以前に「嘉永元年の銅町 組と契約」という記事を書いた(嘉永元年(1848)の銅町 組と契約 - 晩鶯余録 (hatenablog.com))が、それに関する記述を読むことができたので、ここに引用したい。(国立国会図書館デジタルコレクションで「山形市銅町」「銅町」と検索するとたくさん出てくる。)

 

 以下一部抜粋して引用、下線は筆者

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山形県の民俗資料 : 民俗資料緊急調査報告 第1集』

  出版者 山形県教育委員会  出版年月日 1965(昭和40年)

  調査員 小林隆三  調査責任者 丹野 正
  話 者 菊地熊治、後藤隆治、渡辺利八、江ノ目達雄、吾妻ツヤ、長谷川政市

 

10 社会生活
地域社会の秩序と安寧を保つためには、どのような方法や組織があったか。

 ⒈山形市銅町

⑴ 契 約……町区を上・中・下の三組に区分し、それぞれの組で規約を作製し全戸加入を原則とした。戸数は約20戸を単位とした。当番の順序はまわり番とし、年1回開く契約の総会時の世話役一切を引き受ける。
 総会時の仕事としては  宿の準備  経理の報告  献立の準備  膳椀等の準備

⑵ お日待ち 
 名 称  通称お日待ちといった。
 構 成  加入の資格は借家人をのぞき家主連が集まって行なう新年宴会である。
      神主を招待し年頭のお祝いと商売の繁盛を祈願してもらう。

 

11 組・講の道具
 組・講で受けついできた書類箱・当番札・くじ・飲食器などがあったか。

 ⒈山形市銅町
 〔組について〕 山形銅鉄器組合  年一回総会を開く 現在は銅鉄鋳物協同組合と改称

 〔契約について〕 銅町全町区を上・中・下の三組に区分し、それぞれの組で規約を作製し全戸加入を原則とした。 一番組はおおよそ20人内外で契約総会時の責任はまわり番でおこなう宿が負うことになっている。受けついできた品物としては、
 ① 飲食器
   〇膳椀(本膳)各々20人分 お椀 お膳 皿  〇めいめい盆 20人分  〇七つ鉢 七重の木製の四角な箱型のもの 煮焼きした食べ物を入れる丼に類するもの

 ② まくり
   飯台は寺のものを借用していた。 葬式・婚礼年一回の契約の総会時に使用した。書類箱・当番札・くじ等は特になかった。 

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 以上引用終了

 

 「契約」は上・中・下の三組に分かれてそれぞれに規約があった。長谷川總次右衛門家文書「連印仕り仲間約定の事」によれば、嘉永元年には「三つの組に二つの契約」があって組と契約が一致せず、一契約の人数が多くなっていたために不手際が生じ、組間の悶着を起こしていた。その後、組と契約が一致するように変わったのだろう。文書の中にも膳椀の所属のことが書いてあるが、二契約当時は数が足りず、貸し借りがあったようだ。

 

 各組20人内外ということである。銅町の旧地番図では大通りの西側は、南から一五一番~一八一番まで、東側は北から一八ニ番~二一七番まである。南から北に東西それぞれ10番ずつ区切ってみるとおおよそ上・中・下の各組に該当するようである。銅町には弘化年間(1844~1847)の絵図でもおよそ60軒があり、旧地番はその町割りに従って当てられている。

  

 

 「連印仕り仲間約定の事」に見える、中の組連名者17人の名をあてはめると、西側は南から一六一番が庄司清吉、一六九番が佐藤金十郎である。東側は多分一九七番が勇五郎で、多分ニ〇六番が留蔵(太田か?)である。

 中の組には長谷川總次右衛門や大西忠兵衛、庄司治右衛門など銅町の検断を務めた家がある。佐藤金十郎や大西忠兵衛は京都の「免許状」(名称は「~執達状」など)を持っている。

 「明治三年銅町之絵図」では、中の組の組頭は長谷川甚六であった。上の組(仮に南部を上として)の組頭は小野田寅之介、下の組(仮に北部を下として)の組頭は須久勘蔵であった。

 

 三組のそれぞれの中で共同して製造していたのではないかと考えて、『幻の梵鐘』の資料から複数人の記名がある梵鐘を書き出して見てみたが、必ずしも氏名と町内の場所とが比定できず、明瞭には読み取れなかった。

 

 中の組の長谷川甚吉家(長蔵、長兵衛と続く)は、明治に入って上の組の小野田平左衛門家から養子が入り、彼(四代目)とその子たちが小野田才助の仕事を手伝ったり、才助亡き後の小野田商店を継いだ関係から、上の組との交流が強かったとみられる。他にも町内では養子や分家の関係が多々あったのではないだろうか。

 

 

 なお、組分けが五つだった時期があるとの記述がある。

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山形工業高校郷土研究部『山形職人町の研究』

 「山形の銅町の研究」 昭和三十四年(1959)度研究テーマ

 

 ▼蔵王山参拝

   これは銅町が一番組から五番組迄分かれた時に、三番組にだけあったもので、毎年組内から三人ずつ代表で蔵王山参拝に行ったのである。これが一応組内一回りすると組をあげて“総まいり”と云うものをした。その参拝コースは、宝沢から登って高湯に下ると云ったもので、総まいりの時は二十余名が参加していた。

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 この一番組~五番組の時期がいつか、三番組の範囲はどこかはわからない。しかし、嘉永元年の時点で組分けを増やすことに否定的だったことを考えると、それ以後、明治以降、銅町の人口が増加してからのことであるのは確かだろう。

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 その2

漆山 半澤久次郎家 代々没年考証 - 晩鶯余録 (hatenablog.com)から続く。

 

 半澤久次郎家は江戸時代から漆山村の地主で、後に紅花商いから財を成した。明治以降田畑の所有を拡大、村山地域最大級の大地主となった。二代半澤久次郎(俳号二丘)は50歳代の文政後半ころ家督を弟弥惣治に譲ったようだが、その後も長生きし、60歳を過ぎた天保十年(1839)には京都まで旅している。安政三年(1856)一月に79歳で亡くなった。明治に代わる頃は四代為親、五代爲澄、六代爲傳が続いて成人し、三代が揃っている安定期を迎えた。文化的にも、家には一万冊を蔵する「曳尾堂」文庫を持つに至った。

 明治九年(1877)に三条実美大久保利通が半澤家に立ち寄り、十四年(1881)九月には明治天皇が東北御巡幸の際に小休止されることとなった。その準備に近隣の人々は大わらわで、半澤家も莫大な支出があったが、豈図らんや明治十年に為親が65歳で、十四年の八月(明治天皇御駐輦の一ヶ月前)に爲澄が53歳で急死してしまう。この危機にあって爲澄の三人の息子がなんとか供応接待の任を果たしたが、中でも最も力を発揮したのは次男の宏(諱は健吉)であった。彼は一家の立て直しに尽力したが、十年ほど後に病を得、明治二十七年(1894)に40歳にして亡くなった。母のキノはその追悼のためか最上三十三観音を巡礼した。

 長男の六代久次郎爲傳(後に洞翁と改名)もまた、「綿衣破袾」を着、同僚との酒食の宴にも臨まず、吝嗇と嘲笑されても意に介せず、貧民の救済や産業の振興のためには金穀を惜しみなく提供したという。明治二十二年には出羽村(漆山、千手堂、七浦の三村が統合)の初代村長となった。明治三十三年(1900)ころには家務を息子の七代爲邦(幼名亀吉)に譲ったが、なお自家の「羽陽勧農園」に農業技師を招き、「出羽農會」を設立、また窮民救済のために北海道開拓(旭川近辺の美唄に半澤農場を開いた)を始めたり、三十七年(1904)十一月には合資会社「漆山倉庫」を設立したりした。大正三年(1914)二月、63歳で没した。

 爲傳の子、七代爲邦は、叔父健吉が病を得たころに東京での学業を終えて帰郷、翌三十八年(1905)正式に家督を相続し、漆山倉庫にも入社した。模範小作人を表彰したり農業指導員を雇い農業改善の実地指導をさせ、大いに品質の改善、収量の増加をみた。大正四年(1915)の即位の大典に列席する栄誉を得た。漆山倉庫は社団法人、次いで株式会社となった。

 健吉の子亀治(大正六年に健吉と改名)は父に続いて七代と八代を補佐し、漆山倉庫支配人として実務を行っていた。さらにその子の宏吉は京都大卒業後、漆山を出て実業の道に入った。

 七代爲邦は大正十一年(1922)十月二十二日、数え54歳で没した。その時、嫡子の弘介は27歳、既に結婚して長男も儲けていた。

 

 

○ 七代久次郎 爲邦(爲傳子)

  明治二年(1869)六月生、大正十一年(1922)十月二十二日没(53歳)

   妻、紙子(没年未詳、昭和十三年には63歳で健在)

     七代 爲邦

 

 

 ○ 八代久次郎 爲弘(弘介、爲邦子)

  明治二十九年(1896)生、昭和十一年(1936)六月二十二日没(40歳)

  大正三年(1914)山形中学卒業(18歳) 

   先代(七代)没時26歳(11月4日襲名)  慶應義塾大学法学部卒業

  大正十三年(1924)陸軍二等主計 少尉?

  大正十五年(1926)陸軍三等主計

  昭和三年(1928)五月一日、後備役

  昭和五年(1930)「明治天皇御駐輦記念碑」(五十周年)を建立。

   〃     高橋俊一に『物語出羽村郷土史』を執筆させ刊行。

  昭和七年(1932)三月、漆山倉庫支配人半澤健吉が亡くなる。54歳。

  昭和八年(1933) 村会議員、軍人分会長、農会長、経済更生医院副会長、

     株式会社漆山倉庫取締役、天童運送株式会社取締役、羽前銀行監査役など

   妻、りよう(上山、會田氏長女 没年は未詳。昭和十六年には41歳で健在)

      大正15年、31歳

 

 これまで半澤家は八代久次郎の時に漆山を去ったと伝え聞いていたが、詳しく調べると八代は戦前に亡くなっており、半澤本家が消えたのは九代以降であることがわかった。

 以下、半澤家の子たちがいずれも旧制山形中学校(現山形東高校)を卒業していることから、同校同窓会の『会員名簿』を閲覧して確認できたことを中心に記す。『会員名簿』は昭和十五年版からあり、十七年版、二十四年版と続く。戦時中は刊行できなかったとみられる。

 

○ 久次郎(九代 督三?、弘介長男)

  昭和十三年(1938)山形中学卒業 

  昭和十七年(1942)入営 

   没年未詳、但し昭和二十四年度(1949)の名簿には「逝去」とある。

   「○死」と書き込みがあるが、○のくずし字が判読できない。

   この年代には「戦死、戦病死」の書き込みが多いが、「戦」でも「病」でもないようなのだ。

   先代(八代)没時、山形中学在学。

 

○ ーー達司(弘介次男)

  昭和十六年(1941)山形中学卒業。早稲田大学専門部在籍。

  昭和十八年(1943)入営(弟の随筆による。十月の学徒出陣以降かと思う)

  昭和十九年九月没。(鉛筆による名簿への書き込み)

 

○ 久次郎(十代 宏夫、弘介三男)

  昭和十七年(1942)山形中学卒業。浪人し、二兄達司の下宿に同居する。

  本人が昭和四十八年一月に発表した随筆によれば、十八年末に徴用令が来て身体検査を受けたが、十九年正月の再検査の際、若い海軍軍医の温情で「結核」との診断で不合格となったという(徴兵よりも軍需産業への徴用を恐れていた)。

   慈恵医科大学在籍、医師となる。 

  終戦後、農地改革を経て漆山を引き払った際の当主はこの方だろう。

  これ以降は東京在住。開業医。(故人)

 

 大地主の当主が入営するのは珍しいように感じるが、既に大正時代から八代弘介(爲弘)が軍務についていた。九代とその弟が入営したのは、それだけ国家が非常時であったということだろう。酒田本間家の九代当主光正も十八年に42歳で応召し(陸軍騎兵中尉)病を得て帰郷、二十年三月に没している。

 九代とその弟達司が相次いで亡くなった(前後は未詳)。七代から26歳の若い八代への相続も大変だっただろうが、さらに八代が40歳で早逝し未成年の九代が相続した際には、母りようの苦労は並大抵ではなかっただろう。親子二代に渡って本家の六代から八代までを補佐してきた半澤健吉もすでにいなかった。

 当時米の供出と配給を行ったのは農会(地主中心)かと思うが、実際には混乱も多かっただろう。旧来のように小作米が直接地主のものにはならず、国の管理下におかれた。一方、農家の自家留保分はかつてより多くなった。環境が激変していたのだ。

 そして九代も二十歳代で亡くなってしまった。末弟の宏夫はまだ医学生で、予想もしていなかっただろう襲名、家督相続をしても、預金封鎖、新円切替、財産税、農地改革の大嵐(小作農民組合からの厳しい追及)の中で、ほとんど何をする力もなかっただろう。あたふたと離村し、整理されない史料や「曳尾堂文庫」の厖大な書籍も、一部は矢萩家に移ったというが、結局散逸してしまった。事実上当主不在の状況で、家務は番頭(差配)のような人が行なっていたのだろう。

 このように、不運にも立て続けに当主が早逝した(しかも次第に若年化していった)ことが、謎とされてきた半澤家出村の最大の原因なのだろう。

 

 4月7日、8日、数カ所訂正、修正しました。

菅原安兵衛(曙屋安養信士)について その3

 長谷川長兵衛家過去帳にある「菅原安兵衛」戒名「曙屋安養信士」という人物について、長谷川清さんの所蔵する資料の中に関連するものがある。庄司安兵衛という人物と長谷川長兵衛の関係を考えるうえで貴重なものだと思う。

 

 以前に北隣の庄司治右衛門家の旧土地台帳を調べた。

 202番の所有者は庄司𠀋吉から始まって明治33年に長谷川長吉(通り西向かいの長吉であろう)に移り、大正10年に(21年ぶりに)庄司治右衛門に移り、以後、戦前は庄司氏が続いている。

 面積は5畝29歩(179坪)。

 203番の所有者は庄司彌助から始まって、明治32年に明治村字灰塚の藤田茂八の所有となったが、二年後の明治34年に庄司彌助にもどっている。以後、明治42年に庄司安兵衛、大正10年に庄司敬一と続き、大正13年に齋藤勘三郎に移った。

 面積は3畝10歩(100坪)。

 考えるに、庄司安兵衛は彌助(父?)の代までに庄司治右衛門家から分家したのではないか。安兵衛は南隣の長谷川長兵衛(五代平治郎)と鉄瓶の販売契約を結んでいる。それはカタログによる全国販売を目指していたようである。

 カタログはA5判24頁。印刷所は、「山形縣山形市旅籠町新道四一五 渡邊活版所」とある。なお商品図は写真ではなく描画である。ほとんどが鉄瓶だが、他にも茶釜、風呂、鉢、羽釜、水風呂鉄砲(鉄砲風呂)の図が載っている。

 

   

   

  

  謹啓各位益〱御淸榮之段敬賀候隨而弊店儀七代前より鍋釜

  製造を専門と致し江湖諸彦の高評を博し來り候處先年來大釜

  (醤油酒釜)及鐵器類一式の鑄造を行ひ各地に輸出販賣し是れ亦頗る

  好評を得又群馬縣主催一府十四縣聯合共進會に於て受賞の恩

  典を蒙るに至り候而かも弊店之に甘んせず益〱鑄造法の改良

  を圖り溶解爐を改築し機關應用の結果幸にして他國産に比し

  永く御使用保存に堪ゆべき良器を鑄造し得らるゝに至り候又

  此度鐵瓶製造専門光安堂と特約一手販賣之約を結び頗る廉價

  を以て販賣致すべく候間本表御高覧被下卸小賣共多少に不拘

  御用命の程偏に御願上候

                  山形縣山形市銅町二〇五番地
          明治四十三年九月      福井屋
                 群馬縣主催一府   萬鑄物
  明治四拾四年拾壹月   十四縣聯合共進会 製造業 井 長谷川長兵衛
                     褒賞狀受領  

                                        電略〇井
                                                          電話五四三

                               山形縣山形市銅町二〇三番地
                       茶釜鐵瓶製造人 庄司安兵衛

 

  

 

 インターネットとも違って、この販売方法がどれほどの成果を得たかは不明である。ただ、銅町では他にも鉄瓶の一手販売で二者が協力した例があるので、当時銅町全体にそういう方向を模索する機運があったのであろう。南部鉄瓶に対抗しようということかもしれない。

 

 菅原安兵衛は大正四年(1915)に63歳で亡くなっている(時に四代目長谷川ミヨは71歳、五代目長兵衛56歳、六代目甚吉は28歳だった)。だから菅原安兵衛=庄司安兵衛であれば、この一手特約販売は数年間しか続かなかったことになる。

 この後「光安堂」の名は、大正十四年(1925)の『裏日本実業案内 羽越版』に「光安堂 火鉢製造元 庄司安吉 山形市新銅町」という広告が載っている。また「國産山形鐵瓶製造販売 庄壽堂 /\三 庄司彌三郎 山形市新銅町」という広告もある。

 昭和三年(1928)版の『大日本商工録』には「/\丸 光安堂 庄司安吉 山形市新銅町 火鉢製造元」とある。

 これらと菅原(庄司)安兵衛との関係の有無は不明である。なお、新銅町は宮町両所の宮の角から東の道に沿った地区である。鋳物業が多い。

 

 さて庄司安兵衛が菅原姓になったとして、そのいきさつも不明だし、そもそも過去帳に記載されていても長谷川家の墓に納骨されているかどうかもわからない。親友だから命日と戒名を過去帳に記載しただけなのかもしれない。「光堂」、「兵衛」から「養」という戒名になっているとも考えられるが、「曙屋」の由来は不明である。まだまだ安兵衛の謎は解けない。

大石田町に行く 『土に叫ぶ人』

 大石田町役場隣に「虹のプラザ」という施設があって先日公演があった。近江正人作・演出の『土に叫ぶ人 松田甚次郎と妻睦子~賢治の夢を生きる~』である。

 午前中に着いたが、雪だった。時々吹雪く。さすが大石田斎藤茂吉が戦後の一時期住んだ「聴禽書屋」を見に行く。建物が古く、二階に上がるのは禁じられている。「大石田町立歴史民俗資料館」が隣に建てられているが、雪の季節に行くものではない。

 かつて最上川舟運盛んな時代、大石田河岸は大いに栄えたのである。天領で船番所があった。庄内への運送はこの船しかなかった時代である。左沢、寺津なども同様であるが、間の村山市に碁点・隼・三ケ瀬の三難所があって大型船は大石田までしか遡上できなかった。

 昼食に会場近くの蕎麦屋で鴨せいろを食す。この辺の蕎麦は美味い。最近、尾花沢の向こうの宮城県加美町から尾花沢によく食べに来るという人と会った。この方はなんと十九代続く農家だという。常陸という名字で、この姓は加美町に集中している。さぞや由緒のある方であろう。おいしくいただいて会場の「虹のプラザ」へ。開場前からロビーには人が二列に並んでいた。満席である。

 終演後、作演出の近江先生に挨拶に行ったが、そこで旧知の人二人と逢った。外には出てみるものである。しかしお互いに年取ったな。

 会場は大石田町町民交流センター虹のプラザ、愛称「なないろホール」。最大343席(1階285席・2階58席)を収容できる多目的ホールである。

 

  

 

 松田甚次郎は戦前に山形県新庄市で農村更生、改革運動を実践した人である。最上郡稲舟町の地主松田甚五郎の長男として明治四十二年に誕生。県立村山農業学校を経て盛岡農林高等学校に進んだ。在学中十八歳の時、先輩の宮澤賢治に面会し「小作人たれ、農村劇をやれ」との「訓へ」を受け、帰村後、父から六反歩の田地を借りて小作人となった。とはいっても、完全自立というよりは親の協力なしには以後の活動も不可能だったろうとは思う。

 村の若者たちと農村塾をつくって活動した。渇水を主題に農村劇も創作し、宮沢賢治の助言を受け『水涸れ』と題した。それは神社境内に作られた土舞台で上演された。

 昭和七年、二十三歳で大石田対岸の横山村(新庄藩飛地)村長寺崎效太郎の次女睦子と結婚。彼女はお嬢様から小作人の嫁へと生活が一変した。この縁で今作品の大石田公演では睦子が語り手となって話を進める。同年「最上共働塾」を設立。

 昭和十三年、甚次郎は自分たちの活動記録『土に叫ぶ』を出版した。出版したのは東京の羽田書店で、これは第八十代総理大臣羽田孜の父、羽田武嗣郎が創設した出版社である。武嗣郎は甚次郎の六歳年長、長野県出身で東北大学で阿部次郎に学び、朝日新聞政治部の記者をしていたが、昭和十一年に新庄の農村活動を調査取材に来たことがあった。その縁で甚次郎の活動が知られることになったのだ。その後武嗣郎は政治家となり、運輸、農林政務官などを務めた。同時に出版業を起こしたが発行人は別人の名になっている。『土に叫ぶ』を和田勝一が脚色、昭和十三年八月に新国劇が東京有楽座で一ヵ月間上演して大きな話題となった。連日満員で、現役四大臣が観劇したという。その後大阪、名古屋でも公演が続いた。こうして松田甚次郎の名は全国に知れ渡り、講演に忙しい身となった。

 昭和十八年八月、三十五歳で逝去。十一月、「最上共働塾」は閉塾となった。

 

 このような甚次郎の生涯を作品は概観する。その扱い方は山形市平和劇場でとりあげる人物評伝に似ている。郷土の偉人を紹介し顕彰するといった趣に近い(平和劇場は反戦平和の主題に沿う人物に限っているが)。井上ひさしの『イーハトーブの劇列車』や『頭痛肩こり樋口一葉』などのように作家性を持って対象者の人生や社会に切り込み作品化するというものではない(今作品には『イーハトーブの劇列車』の一部が参考にされているようだが)。しかし、宮沢賢治のように誰にもよく知られた人物でなければ、エピソードを紹介するだけでも大変なわけで、仕方のないことではあろう。

 一人の人生を俯瞰的、網羅的に描くのではなく、何か一点に絞り込まなければ二時間あっても足りない。

 

 また、少しばかり土地制度を調べてみた自分にとっては、明治から戦前の昭和までの地主小作の有り様と人口爆発の問題点、その変化(小作争議、共同集荷出荷、戦中の供出、配給)などがもう少し反映されてほしい感じがした。そうなれば農村協働組合の実態とその影響がわかりやすくなったかもしれない。禁酒禁煙、敬神家であり政治思想的には偏らなかったようだが、地主が小作人になるという大胆な行動をする人間性、精神性がいかにして形作られたかも興味あるところである。実在した人物を演じる役者さんが役柄をよく把握するためにも、より深く研究されるべきことであろう。

 

 さらに、地域の文化活動を取り込んだ構成になっている(たとえば子供たちの合唱とか和太鼓の演奏とかダンスとか)。ようするに文化祭的公演になっていて、それはそれで楽しいのだが、新庄演劇研究会さんの公演(あまり観ていないけど)のように、リアリズムの演劇表現を追求したものとは違っている。だから「演劇」を期待して観るとやや期待外れだったかもしれない。しかし、これは全く個人的な感想であり、二時間半の大作を作り上げた方たちの熱意と努力には敬意を表します。二時間半飽きることなく見入っていました。お疲れさまでした。

春の息吹

 日射しがあって寒くないので、馬見ヶ崎河畔(馬畔=「ばはん」と雅称する)を散歩した。先月で学習指導員の勤めが終わってからほぼ引きこもっていたが、急にある事情があって仙台まで何往復かしたら、バス停への移動だけで足が痛くなったので、運動の必要を痛感している。

 梅が咲いていた。雪は溶けている。奥には遠く村山市の甑岳が見える。

 毎日パソコンのモニターばかり見ている目も、遠くを望んで気持ち良いか。

 

   

 

 自宅庭の隅に蕗の薹が出ていた。ここは南からの陽が当たる。先月は一時、四月の陽気だったが、結局は順当に三寒四温で春を迎えている。今日は高校入選の日。昨日は山形大学の合格発表日。人が動く季節でもある。

 

     

『駈込み訴へ』

 太宰治の『駈込み訴へ』について少し考えたこと。

 高校演劇でも題材にされてきた作品だ。一人芝居でもできる、ということもあるのだろう。献身が認められない不満と屈辱、嫉妬から裏切りへ、可愛さ余って憎さが百倍、その内心の吐露が面白いからでもあるだろう。

 昨年末、高校演劇東北大会で上演された『駈込み訴え』(上演、青森中央高校演劇部 作、畑澤聖悟)を観たので触発されたところがある。畑澤氏の指導による上演は周知のとおり他校のレベルを超えているので、その素晴らしさは、いまさらここに書くまでもない。ただ、その原作からの脚色に関して、少し自分なりに思ったことを書いてみたい。だから作品批評でもない。独り言である。

 この作品は今夏、岐阜での全国大会で上演されるのでぜひ観てください。会場は、東海道新幹線岐阜羽島駅から少し離れた不二羽島文化センターにて、7月31日(水)から8月2日(金)までの予定で開催されます。

 

 舞台は某高校演劇部の部室、三年生部員は二人しかいない。二年一年が少しずついる。三年生の一人が演出で主役。もう一人が演出助手で、これがマネージャー役もこなしている、裏方全般を一人で支えている。近々大会で『駈込み訴え』を上演しようと稽古しているのだが、主役はイエス。これが暴君的な先輩で下級生に厳しい。自分が演出して自分で主役をやるのだからまあ独裁者である。それが「いじめ」となって、部を辞めていく子もいる。先生方のなかでも噂になるくらいである。で、担任で生徒部の先生が、演出助手の生徒から内部情報を聞き出そうとして、進学の「学校推薦」を餌に近寄る。ここで演出助手はambivalentな状況に悩む。自分の利益のために一年生から部活動を共にしてきた演出を裏切るのか。

 ここがイエスイスカリオテのユダの関係に重ねられているのだ。太宰の原作の言葉が台詞となって流れてくる。太宰が口述筆記させたというくらいで、まさに人の口から流れ出る言葉である。部活動の描写と新約聖書のエピソードが非常にうまく重ねられている。傲慢な演出(イエス)に対しておどおどしながらも献身的に従う演出助手(ユダ)。

 

 ……感想で終わりそうだが、一つだけ、「無理してるんじゃない?」という台詞についていろいろ考えたのでそれを書いてみたい。

 二回出てくるが、最初は演出助手が演出に向かって言う。部活動に全てを賭けている友人を気遣いつつ、部内の雰囲気を何とかしたいという思いも込められている。二回目は幕切れ。裏切った演出助手の目の前に十字架に架けられた体の演出が立ち、演出助手に対して「無理してんじゃね?」と言うのだ。この二回目の台詞の意味を考えてみた。

 演出助手が「無理している」のを演出は感じ取っていた。その「無理」とは何か? 部活動の細々とした雑用を一手に引き受け、勉強にも差支えている状況を言うのか。あるいは、部内のいじめについて、自ら撮影した映像を証拠に先生に訴え出た裏切り行為に対して言っているのか。

 そう。ユダ(演出助手)は無理をした。無理を重ねたために状況は悪化し、ついに破綻(一面では成功)した。

 部活動では、演出の理不尽なわがままを通すのに反対せず、その実現に奔走し、また演出の思うようにできないと暴力的なまでの演技指導をすることを内々に収めようとする。勉強は思うに任せないが、担任から推薦の話を聞いて一筋の道を見出していた。ところが推薦希望者がもう一人現れた。なんとしても進路を確定したいではないか。しかしそのためには二年間以上ともに歩んできた友人を売り渡さなければならない。

 最初から、出来ない事は出来ないし、駄目なものは駄目というべきだったのだ。八方美人的に丸く収めようなどと無理するから大事になるのだ。担任には、そんな餌で釣るようなことはしないでくださいと言うべきだったのだ。

 あるいはまたこんな風にも思う。

 原作の最後で、ユダは「あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。はい、有難う存じます。はい、はい。申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。」と言う。

 「へっへ」とは太宰のお道化なのかもしれないが、このような打算的な開き直りはまあ、普通の事ではないだろうか。誰しも自分は聖人君子じゃないと自分を納得させる時があるのではないか、大人は。ねえ。問題は、そこで、演出助手が演出を裏切るのはつまり、initiationだということだ。そんなに気にすることではないのだよと、イエスは優しく言ったのかもしれない。高校生が一段飛び越すその危機的状況に、教師はあまりにも無関心で恥知らずである。部活動を指導するべき顧問は不在だし、生徒部の先生も自ら聴取しようとはしない。教員の連携も無く、生徒の弱みに付け込んで裏切らせ、その生徒が傷つくことには考えが及ばない 大人はきっと忘れてしまったのだろう。忘れないと生きてこれなかったのかもしれない。大人になれよ、いつまで甘いこと言ってるんだよ、と。

 ユダは縊れて死んだという。なぜか太宰のユダにはその自死の気配が無い。舞台のユダ(演出助手)は、実に危機的ではないか。もしイエス(演出)が聖書の通りに「生まれてこない方が良かったね」とでも言ったら決定的だろう。誰が責任取るんだよ。

 演出助手にもう少し頼れる先生がいて、その助けを受けて自立して、(開き直るのでも自己正当化するのでもなく)正義を通す。部活も止めて推薦も辞退して、自分で道を切り開こうとする。そんな結末も考えられるかもしれないと思った。