山形北高演劇部四十年略史

 平成10年の9月に印刷、発行した『山形北高演劇部四十年略史』 B5判、本文51頁
 
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 当時、創立70周年記念事業で文翔館展示が行われようとしていた。美術部、新聞部や茶道部点前など文化部展示の中に置いて自由に持ち帰ってもらったもの。200部くらい刷ったか。今手元に6冊だけ残っている。北高の図書館にも1冊あるはずだ。10年間顧問をしていて、そろそろ転勤かと思い、何か恩返しにと(思ったかどうか忘れたが)調べてまとめたもの。実はもっと以前に計画して、OGあてに手紙を出し、在校当時の様子を聞いていたのだが、グダグダとまとめずに放っておいたのだった。
 70周年を機に、一念発起してワープロを叩き続けた。
 
 昭和27年の北高設置(東高に併設)から書き始めているが、学校自体は第二高等女学校の時代があるので70年となる。昭和29年に独立した北高になり、演劇部も独自の活動を始める。ここまでが前史。
 40年間を昭和49年で前期・後期に分けている。これは48年3月に、それまで10年にわたり指導された大谷駿雄先生が転出されたこと、49年1月に『試行錯誤』(作、佐々俊之)で東北地区高校演劇コンクール(青森市)に初の山形県代表として参加し(自薦による)優秀賞を獲得したこと、50年6月の第10回定期公演(県民会館)で、おそらく部史上最高傑作に数えられるだろう『奇蹟の人―ものには名前がある』(作、W・ギブソン)が上演されたことによる。前期をさらに2期に、後期をさらに3期に分け、全体を5期に区分している。
 
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 自分は最後の第5期10年間の顧問だった。この間、一度も県大会優秀賞以上に入らなかった。すべて優良賞止まり。しかし、定期公演や他校との合同公演などの水準の高さでは他を圧していたと思う(自画自賛)。山形南高校とは5年間合同公演を行い(内1回は4校合同)、その最後の年代の南高生が全国大会最優秀となったメンバーである。
 
 文翔館でちょっと思い出したので書いてみました。北高演劇部OGの方でご希望のむきがあれば2~3部お分けしますのでどうぞ、といってもこれ見てる人いないか。