このブログも2010年5月2日から始めて、もう8年半ほどになる。
子どもが生まれて小学2年生になっているほどの期間だ。主に演劇部活動に関して書いてきたが、途中ほんとにいろいろなことがあった。
何事にも「永続」は無いわけで、geocitiesというサービスが無くなるとの通知を見た。つまり、このままだと、このブログの過去記事すべてが消えてしまうらしい。
まあいずれは消える物ではあろうが、ちょっとまだ維持したいと思う。
ので、ブログの「引っ越し」という作業が必要になるのだが、面倒で仕方が無い。誰かやってくれないかな。やらないでいる内に消えてしまうかもしれないが…。
唐突だが、ウエブ上で目にして気になっている表記上のことについて。
○ 「ない」という現代語には、古語の「なし」と「ず」の二つの意味がある。
「知らない」は「知らず」であり、「金がない」は「金なし」である。前者「ず」は助動詞で、後者「なし」は形容詞である。
後者(形容詞)の場合、「無い」「無し」と漢字表記できるが、前者(助動詞)は、「知らない」を「知ら無い」と表記するのはおかしい。「ず」は「不」に対応するからである。
「不知」と「無知」では意味が違う。「不」は用言を否定し、「無」はものごとの存在を否定するからだ。つまり「不知」の「知」は「知る」という動詞で、「無知」の「知」は「知識」という名詞。
漢文訓読では「助動詞に相当する漢字はひらがなで書き下す」というきまりがあるので、「知ら不」と書くことはない。「不可触」は「触るべからず」となる。
○ 格助詞「が」「の」の使い方がおかしい
「いろんな意味で都合の悪いので」
→ これは「が」が適当。あるいは「都合の悪いことなので」
のように、後続の述語を、体言に続く形にするべきだ。
「~であったことのもあって」
→ この「の」は準体言として使っているので、「こと」と重
複している。「~であったこともあって」でよい。
これは「を」についても有って、目的語を示しているのに次に
自動詞が来るという使い方を見る。実例ではないが「建物を見
える」というような言い方である。「建物が見える」だろう。
「ほぼ全ての国の憲法で軍の存在が明記している」は「存在が
明記されている」か「存在を明記している」だろう。