9月になった。地区大会まで3週間。

 9月1日(水)、地区大会に向けた顧問会議と市民会館スタッフ打合せ。今回も自分の役割は照明担当。といっても生徒がフィルター交換をするので、その指導だけ。うちともう1校の生徒が係。全校の仕込み図を渡される。高校生の大会なので、地明かりは2回路、トップが10本くらいの基本仕込みである。これで十分で、すべて「生=フィルターなし」という学校もあるから難しいことはない。あまり難しいと生徒には操作出来なくなる。コンピュータ記憶にするにはリハーサルの時間が短すぎるので手動である。
 11校の内、3校が創作脚本(2校は生徒創作)。1校が原作付きの新作顧問脚色作品で、あとは既成(先輩の作品の再演もある)。結局自分のところだけが純然たる顧問創作ということになる。某先生はせっかく創作なさったのに、生徒から「ある作品にそっくりで問題になるのでは」と言われて止めたという話をお聞きする。何を書いても、無数にある作品のどれにも全く似ていないなんてことはあり得ないと思うが、ある場面が本当にそっくりだったらしい。偶然というのは恐ろしいものだ。
 全国大会を観てきた顧問の感想を漏れ聞く。やはり人の感じ方はそれぞれで、上の段階に行き、広い範囲から見られるほど、毀誉褒貶も甚だしくなるようだ。最優秀の上演でも寝る人はいるわけで、しかし寝た人をとんでもない馬鹿者というわけにもいくまい(プロの芝居だって寝るもんね)。今年はレベルの高い大会だったと言う人もいれば、今年はひどかったと言う人もいる。やれやれ。
 まあ、「季刊高校演劇」の特集号を読んで、あんまりお笑いネタが多いので驚いてはいたが、これが全国の傾向なんだろうから仕方がない。作品のある部分に大笑いして、ああおもしろかったといって楽しく帰れたらOKなのだろうか。今の高校生はお笑いの作り方に習熟していて、またよく反応して笑うものだから、会場が大受けすると審査員の評価にも影響するのだろうか? 演劇ってこういうのだっけかと疑問を抱いたりするのはいけないことだろうか? 類型的な人物、ご都合主義の展開でいいのか。失礼ながら、かつての代表のレベルとはずいぶん違うなあと思うブロックもあった。(脚本を読んだだけの比較ですが。)
 脚本としてしっかりしていると思えるのは、「SISTERS」と「トシドンの放課後」「オニんぎょ」か。ただ「オニんぎょ」は読んでいて、「Free care, cowards to become midnote.」を思い出したが、言葉遊びに凝りすぎで他がおろそかになってしまった感じがする。(言葉遊びで芝居を作ったと思えばいいのか。)
 悩ましくて何度も読み返していた「さよなら小宮くん」については、結局、松竹新喜劇のように笑わせて泣かせての筋書きであって、脚本上の甘さ、人物造形の物足りなさとか心情の掘り下げの浅さは問題ではないのかもしれない。60分でできることには限りがあるから過剰な期待は良くない。そこを、この作者ならと変に期待してしまうから、裏切られた感じになってしまうのだろうと納得する。これは良くできた喜劇なのだ。(以上、一地方弱小演劇部顧問のたわごとでした。)
 9月5日は部員とBSを見ようと思っている。認識が変わるかも知れない。