能について(夢野久作)

 青空文庫夢野久作の書いたものを見ていたら、「能」というのがあって、ちょっと面白いので紹介したい。下線は自分が付した。

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      監  督

  能を見ると、前述の舞い手、謡い手、囃方のほかに、謡い手と同じ礼装をした人間が一人もしくは二人、舞台の後方に座っている。これは後見(コウケン)というもので、二人居る場合には、向って左側に居るのが舞台監督、右側に居るのがその補助者である。
  監督はその能の一曲の初めから終るまでの舞台面に対して一切の責任を持っている。
  譬えば出演中の主演者とか、その他の登場者とかに事故が出来て演主が不可能になった場合は、礼服のまま代って勤める。だから監督は通常の場合、主演者と同等以上の芸力がなければならぬ。第一流の人が主演者となった場合には、止むを得ずその主演者の最高の弟子が監督を引き受ける。又監督はその能の舞台面に於ける凡ての欠点を、謡、舞、囃子、装束、道具、その他何によらず出来るだけ眼に付かぬように正さねばならぬ。すなわちその能の最後の責任は常に監督の双肩に在るので、監督が確りしていないと主演者は安心して舞えない。
  ここでチョット演出に関する出演者の責任関係を述べる。囃子のリズムをリードする責任者は普通太鼓で、太鼓が出ると、太鼓がリード役になる。そうして囃方は一団となって地謡い(合唱隊)や主演者、助演者の謡もしくは笛のリズムにくっ付いて行く。
  合唱の責任者は中央(二列の場合は後方の中央……二列以上の場合はない)の一人で、合唱全部をリードしつつ、舞い手(主演、助演の各役)の舞いぶりや謡いぶりにリードされつつ調和し変化して行く。
  舞い手は自分の仮面と装束とによって全局のリズムを支配しつつ、背後の監督に対して責任を負いつつ舞う。=註に曰わく=これは私だけの考えかも知れない。しかし能はかくあるべきものと思う。何故かと云うと、観客に対して責任を負う芸術は必ずや極めて堕落したものに違いないからで、結局、向う受け本位の芸術となるからである。芸術のための芸術として能が存在している以上、舞い手は観客の観賞眼を本位としてはならぬ。自分の芸の欠点を最も看破し易い位置に座っている監督の耳目に対して責任を負いつつ舞い謡うのが正直と思う。
  こう云って来ると、能の全局面で、観客に対して責任を負うている者は監督唯一人となる。しかもその演出が失敗した場合は全然監督の責任に帰するが、無事成功の場合は監督の手柄にはならない。唯楽屋に這入ってから、舞い手にお礼を云われるだけである。馬鹿馬鹿しい話であるが、能の真面目はそこに在ると思う。

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 能を戦国大名の前で演じて(舞って)、分からん! とか言われたら監督は何て答えたのだろう。

 自分が関わってつくる芝居がいったいどこに、誰に責任を持つのか。たまにはそんなことを考えてみることも必要なのじゃないか、なんて。
 (観客にも、もちろん審査員にも責任を持つものではないとなれば、もっと超然とした気持ちでいられるのかどうか。)

 他に、喜多六平太から聞いたという、「能」は動物の名前で、熊とそっくりだが手足がない(列火の四つの点がない)。しかし物真似が得意だという話がある。この能、もちろん身振り手振りで表現することはできない。じゃあ何で(どうやって)表現するのか? 青空文庫で読んでみてください。