県北が大雪で山形線一部運休のため部活も休みだった

 昭和2年(1927)3月に南京で国民革命軍が外国人を襲撃した。民間人は襲われ、各国領事館も略奪された。英米軍は揚子江から艦砲で反撃した。日本領事館も襲われ館員の家族も暴行を受けたが、日本軍は反撃しなかった。これが侮日の雰囲気を助長した。(南京事件
 同年4月には漢口の日本人租界でも同様の侮日行動、迫害があった。(漢口事件)
 これらは、国共合作によって国民革命軍の中にいた共産党員が仕掛けたものだったので、諸外国からの批判を受けた。事件の背景にはコミンテルンの指示があった。蒋介石は上海で共産党弾圧のクーデターを行う。
 翌昭和3年(1928)5月、山東省済南で日本人居留民に対する暴行を発端に北伐途上の国民革命軍と日本陸軍の衝突が起きる。この中国軍側部隊は共産党の影響が強く、反日宣伝とそれによる日中両軍の戦いの本格化をもって国民党を弱体化させることを狙い、盛んに挑発を繰り返したのだ。
 この中で10数人の日本人居留民が惨殺され埋められた。日中立ち会いの下での検死写真があるが、その衝撃的写真は、故意にか、731部隊の人体実験写真と誤用して流布されている。さらに、今の中国では全く逆に、この事件では日本軍が残虐行為を行ったとされているらしい。(済南事件)
 同年6月4日、張作霖爆殺。張学良の易幟によって北伐終了。
 昭和4年5月、張学良の共産党狩り=ハルピン総領事館への手入れ、中東(北満)鉄道の奪取に対してソ連が国交断絶を通告、8月以降12月にかけてソ連軍が満州に侵攻、国民政府軍の初めての対外戦争となる。この機に中国共産党ソ連軍に呼応して南部で暴動を起こした。
 昭和6年9月18日、柳条湖(溝)事件。満州事変。
 
 昭和11年(1936)12月、西安事件(張学良による蒋介石の拉致軟禁)による第二次国共合作。ふたたび国民党の中に共産党員が浸透する。やがて中ソ不可侵条約が結ばれる。
 こうして反日・侮日宣伝(同時に親日者を漢奸として殺害する)と暴力的挑発のあげくに、
 昭和12年(1937)7月7日、北京郊外蘆溝橋で国民革命軍第29軍と日本陸軍が衝突する事件が起きた。
 その月末、北京近郊通州で日本人虐殺が行われ、380人中260人が異常な殺され方で亡くなった。女性に対する鬼畜の行為も含め、人間性の欠片も見られない。
 日本軍の大部分が他出していた隙に、共産党の影響を受けた冀東防共自治政府軍保安隊が襲撃し、圧倒的劣勢の留守部隊と特務機関を壊滅させると、民家を一軒一軒襲い、略奪・暴行・虐殺をほしいままにした。この時の惨状の写真も、いわゆる南京大虐殺証拠写真として誤用、流布されている。自分たちの悪行を相手のことにして逆宣伝するのは常套手段である。(通州事件
 
 この後も日本人や日本軍将兵へのテロが相次ぎ、こういった流れの果てに8月の第二次上海事変がある。蒋介石は数万の兵力を集中して、日本海軍陸戦隊だけの日本人租界を攻撃し、占領しようとした。日本軍は邦人保護のために劣勢に耐え勇猛果敢に戦った。この間、中国空軍の誤爆で他国の租界でも1000人の死者が出たが、これを中国側は日本軍の爆撃だと逆宣伝した。
 当時の一般日本人にしてみたら、その占領の先にどんな残虐行為が待っているか心底恐ろしかったに違いない。
 (日清戦争以来の経験で中国側の日本軍捕虜に対する仕打ちを知悉していただろうし、また記憶には10数年前、大正9年(1920)3月~5月の尼港事件が鮮明にあっただろう。アムール川河口のニコラエフスクで4300人の赤軍パルチザンが行った大虐殺だ。パルチザンと白軍との戦いの中、在留邦人と市民を守る立場になった日本軍は協定を結んでパルチザンの入市を認めるが、協定は守られず、逆に武装解除を求められて決起する。しかし多勢に無勢、入港していた中国海軍砲艦からの砲撃も受け、敗れる。パルチザン(ロシア人、中国人、朝鮮人からなる)は日本領事を含む730名の日本人と6000人の市民を虐殺し、市を焼き尽くした。ボルシェビキの赤色テロの域を超える悪逆非道である。)
 
 日本軍は陸軍を派遣し、上海の困難な包囲戦を勝ち抜いた。そして国民政府の首都南京への追撃戦が行われ、日中は全面戦争へと突入してしまう。この戦いの中で国民党軍は弱体化して行き、日中戦争後の国共内戦では共産党軍に破れてしまう。目的は達せられたわけだ。
 
 当時の上海、南京間にはナチスドイツの軍事顧問が築かせた防御ライン(ゼークトライン)があった。上海に残るトーチカ跡もその一環であろう。中国軍はドイツやチェコの優秀な銃器で武装していた。写真で見るとわかるがヘルメットもドイツ式だった。
 ドイツやイギリスが中国に協力的だった背景には、両国が中国において獲得した自国の権益を守るという目的があった。結局は国益が一番であり、東洋人同士がいくら殺し合おうとさほど気にならなかったのかも知れない。
 
 
 こう書いてきたのは自分の中の知識を整理するためで、間違いもあるかもしれない。だが、尼港事件や済南事件、通州事件の実態は戦慄すべきものである。自分の中に怒りと悔しさがこみ上げる。
 
 そしてまた別の戦慄に襲われる。
 もし逆の立場で、「日本軍の残虐行為」を教え込まれ続けたなら、その人の怒り、憎悪、復讐心はどれだけのものになるだろうかという恐ろしさだ。(それは今、実際に知ることが出来るわけだが)
 そして今、かつての反日侮日宣伝、挑発、漢奸狩りのようなことが行われているとしたら…。
 2年前の9月、反日暴動でどれほどの被害が出たか、まだ忘れてはいないだろう。暴行を受け負傷した日本人が、もし死亡していたらと思うとぞっとする。
 
 こうした虐殺は、通信途絶など隔絶された地域で、双方に武力の差がある場合に起きるようだ。だから明白な証拠を記録して伝えることが予防にもなる。現在ではインターネットが発達し映像記録・配信も簡単にできるから起きにくいかもしれないが、ネットが遮断されている地域では危険だろう。○疆ウ○グル自治区や○ベット自治区、クリミ○などの現状はどうなのだろう。
 あと、たとえば○鮮○島有事の際の邦人保護、救出は誰の仕事になるか分からないが、十分な反撃力を持って行わないと大変な事態(邦人の大量の犠牲など)を招くかもしれない。平気で一般人の大量虐殺を指示する勢力があって、偏った情報で洗脳された民衆は非人間的なまでに過激な行動に出るという事実を忘れてはいけない。歴史に学ぶことは大切である。