春めいて暖かく、雪がどんどん溶けていく。乾いた地面も広くなり、気持ちがよい。が、花粉が飛んでいると思うと憂鬱でもある。
今日は代休だったが、出勤して学年末考査の問題作成、印刷をした。設問数が多くなってしまった。
国立前期の発表日なので3年担任団は多くが出勤。HPや電話で結果が判明するたびに喜びの叫び。明日は地元大学の発表だ。
ケニアの大統領選挙が行われたらしい。前の選挙の際は部族間で争いが起きたとか。アフリカや中東では、部族社会が根強く生き残っているのだなあ。
「おじいさんと草原の小学校」という映画を観る。原題は「The First Grader」。「小学1年生」ということだろうが、内容からすると邦題はピントがずれている感じだ。
ケニアにおけるイギリスの植民地支配。反抗するキクユ族(マウマウ団)に対する熾烈な弾圧。2桁の白人犠牲者に対して10万人超のキクユ族犠牲者。
近年、収容所での非人間的扱いや拷問に対する英政府からの賠償がなされたようだ。狂信的テロリストではなく独立の闘士として名誉を回復したのだ。それをイギリス自身が映画化するというのが、まあイギリスらしいのか。
当時の白人は黒人を人間扱いしていないのがよく分かる。アメリカの公民権運動を思い出せばよい。いわんや植民地時代のアジア人をや。会田雄次の「アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界」において喝破されていることだ。
支配-被支配の関係、その中では差別が当然のことになる。戦争の中では、残虐行為が起きる。それはどの民族だからある、ないということではない。それが日本だろうがアメリカだろうがソ連だろうが、それに対する中国だろうがベトナムだろうがアフガニスタンだろうがどの民族の軍隊でも起きる。
果てしない殺し合い。その中ではどの国も、自国の軍隊は正義でその戦争は聖戦だ、などと言えるわけがない。
だが、戦争したがる輩、戦争を煽る輩を抑え込む手段も、今のところ軍事力しかない。戦争を放棄した国が、隣国と戦争しないためには軍隊を持たざるを得ないという矛盾。
歴史を正しく認識せよとは何か? 一方的で非理性的な善悪の押しつけがまかり通るのか。
昨日、歴史は都合良く変えられると書いた。イギリスのように、自分の悪行を明確に曝す国もあれば、過去の被害を誇張し、捏造し、敵視することを教え続け、欺瞞の歴史の中に自国民を置く国もある。その欺瞞はいつかきっと己の身に返って、自分を傷つけるに違いない。
しかしその前に、粗製濫造、俄作りの海軍が何か決定的なこと(悪質な挑発)をしでかさないようにと祈るばかりだ。