ガラスの動物園  テネシー・ウイリアムズ  小田島雄志、訳

 寄贈していただいた新潮文庫を、半日、部活につきあいながら読み終えた。「欲望という名の電車」の舞台に重なる。「欲望~」は没落階級の女性の悲劇に重点があるのに対し、こちらは社会から取り残された中流以下、貧民以上の階層の母親~子の関係に重点があるようだ。地縁・血縁から切り離され、ワーキング・プアーになっている階層の悲劇は現代の写し絵でもあると思われた。

 失われた過去の幻影を忘れられず、現実の不安から逃れようとあがく母親。足の悪い娘はひどいコンプレックスからひきこもりになっている。その弟は、靴倉庫に雇われ、安月給を稼いで母と姉との生活を維持しているが、将来性もない、二人の家族との生活に嫌気が差している。弟は母親に言われて、姉のお相手にと職場の同僚を紹介するが、いい感じの彼は既に婚約していたという結末。弟は家族を捨て家を飛び出す。

 高校生の渡辺えりさんはこの作品の何に号泣したのだろうか。号泣しつつ「明日から生きて行かれる」と思ったのはどうしてだったのだろう。もし、自分が同じ芝居を当時観ていたらどうだっただろうか。
 幼いときに、人間は死ぬのだと知り、恐ろしがって泣いたという、感受性の強い子どもだったえりさんだからこそ、舞台上に美しく(しかし悲劇的に)描き出されたローラの姿を観て「生きて行かれる」と思ったのではないか。(追記)

 「家族」の普遍的な姿が書かれてあるとも言える。家族を、家庭を放り出して気ままに行きたいと思う父親(夫)。家族、家庭を一手に引き受け(支配し)、子供の幸せと子供からの全面的服従を育もうとする母親。母を見習い、父を見習って自分を形作っていく子供たち。いつまでもわが子を胸に抱きたい母親と、母親とは距離をおきたい子供たち。自立心が、嘘や反発、悪態となって出てしまい、親を傷つける。
 この普遍性が観客自身の家族との関係に響くのではないか。(追記)
 
 自分はこの弟の立場である。家族を離れて家を去り、大学に通った。卒業一年前に父が亡くなった。卒業後、就職して数年間は母と姉、そして兄と同居したが、結婚を機に別居した。実家には母と姉と、そして兄が残った。姉は大資本の会社に勤めていたので生活が苦しいわけではなかった。ただ、母は家事と兄にかかり切りで楽ではなかった。母は姉を頼りとしていた。それは姉が入院して全身麻酔の手術をしたときの母の取り乱し様からも知れた。母も兄も、もう他界している。

 つい先日、ずいぶん久しぶりに夢の中に母が出てきた。何度も夢で見る風景の中にいた。そこは旧県庁裏と思われる場所なのだが、不自然に広い区画に分かれていて、その中に家が建っている。自分の住んでいるのは道路に面した小さな家だが、裏や隣にも古い壊れかけたような家があって、知らない人が住んでいるようだ。これは実際の風景ではない。どこか違う場所と混乱しているのだ。夢の中でしか見ない、現実には存在しない場所と思っていた風景に偶然遭遇して、ああ、子どもの頃にここを実際に見ていたのだなあと思い出した経験があるのでそう思う。
 道路側から家を見ると、家の玄関から出た所の小川に架かる橋の前で、誰か近所の人と立ち話をしている。自分に気づくと目が合って、ああお前か、という感じ。特に何か表情にあるわけでもなかった。兄は出て来なかった。
 
 あそこには就学前から小学5年生まで住んだ。一人で遊んでいた、子供には十分広い、秘かな探検場所。あの空間での日々が自分の空想癖(現実となじめない雰囲気)を育んだのである。
 
 
 こんな感想文送ったら変に思うだろうな。
 
 (携帯から修正したら1000字以上の部分がカットされたので、別のPCを借りて打ち直したらフォントが変になった。早くPCを手に入れなくては…)