篠田節子の小説『弥勒』

 以前読んだ篠田節子の小説『弥勒』(1998講談社)を思い出している。なぜかというと、「大躍進」時代の中国の惨状を調べた『毛沢東の大飢饉~史上最も悲惨で破壊的な人災19581962』(2011草思社)を読んだからだ。
 
 『弥勒』は、カンボジアの悲惨な結果を受けて書かれている。また、中華人民共和国に併合されたチベットの状況を踏まえているとも言われる。その内容は、クメール・ルージュの行ったジェノサイドをリアルに描写していると思われる。
 最も記憶に残っている部分。(原文は忘れたが)収容所で「技術者、医師、教師などだった者は名乗り出よ。特別な仕事がある」と言われて意気揚々と出て行った者たちが、その日の夕方、半分死人のような息も絶え絶えの姿になって帰って来た。彼らは一日中重い石を背負って、急峻な崖を上り下りして運ばされたのだ。翌日も…。それは仕事というより、インテリを抹殺するための、死に至る拷問に過ぎなかったのだ。
 そこで仲間の忠告を受けて名乗り出なかった者は助かった。自分も、ある場合にはこのようにして逃れなければならないのだという教訓を得た。ある場合とは、過激な平等主義あるいは軍隊主義を目指すグループから支配されるような場合だ。
 知識は害悪であり、無知が賞揚される。恐ろしく幼稚で無謀な計画がまかり通り、常識や科学を否定する。無理に開墾した斜面は崩れ、人々を押し潰す。赤痢の下痢を止めるために水を与えず、下痢は止まるが脱水症状で患者は死ぬ、等々。
 
 気分が悪くなる内容だが、ポルポトカンボジアではこれが現実だった、そして現在の某隣国の現実なのだろう。
 これらの国の非人間的な圧政のモデルは、その類似性・共通性から、おそらく中国共産党の「大躍進政策」、「文化大革命」なのではないかと思われる。1957年末からの5年間、愚かな「大躍進」中に、その破壊と暴力によって直接、間接に4500万人が亡くなり、自然環境も回復し難いダメージを受けたというのだ。それに次ぐ「文化大革命」の10年間では、さらに文化(精神)の破壊が進行し、生き残った人々の心もさらに荒廃した。
 自分は「文化大革命」中に起こったあらゆるキチガイ沙汰を(読んで)知るにつけ、なぜ人々は易々とこのような愚行に染まっていったのかと不思議に思ったものだ。だが、その前史である「大躍進」の経過を知れば、人々が何も反対できず、若者があのように暴力的だった理由が分かる。まさに『弥勒』の世界が存在したのだ。はるか遠い未来において救われ、この世は楽園(共産主義の世界)になることを信じて、今このときの苦難に耐えるのだと言われ、絶望しながらもその生き地獄から抜け出すことができなかった。
 巨大な権力の階層構造があり、その頂点に、妄想に駆られ自己の無謬性を信じて疑わない1人の人物がいた。すべてはそこから発し、狂信的な各階層のプチ首領が同じように権力を振るったのだ。それぞれの段階で、上の指示には逆らえず、下には暴力で言うことを聞かせる。そして最下層の人々が最大の被害者となった。
 
 当時ニュースでよく知られた大豊作の写真。人が乗っても倒れないほどの密集した稲穂。それはあり得ないことだったが、指導層は信じた。これなら穀物を輸出し、工業化のための機材を輸入しよう。農民は働かなくても食べられるから、灌漑や開発の大事業を興し、製鉄量でイギリスを追い抜こう。
 大豊作は虚偽だった。地方幹部は中央の機嫌とりのために嘘の実績を報告していた。しかし、それに対する国の供出要求は増加したから、当然、農民の食べる穀物がなくなった。
 
 「大躍進」を推進した人物の1人劉少奇は、途中で人民の苦難を知り、回心してその男を批判するが、逆に執拗な恐るべき仕返しを受けることになる。文革はまさにその復讐のために起こされた。「文化大革命10年史」に描かれた劉の最期に至るまで続けられた仕打ちは、皇帝が君臨した時代、嫉妬に狂った后が他の妃に行った所行に近い。
 
 指導者が国民(農民)を差別し、その命を軽視し搾取する姿は、人民解放の理想とはかけ離れている。「大を生かすためには小を殺しても仕方がない」という冷酷な、軍隊的思考法であり、民主主義社会では到底受け入れられるものではない。「集団化」の考えは、あらゆる物の個人所有を禁じ、食事も家庭ではなく共同食堂でとらなければならず、労働(これが無茶苦茶な大開発事業ばかりだが、無駄骨に過ぎず、国土は逆に荒廃した)の点数によって支給された。「働かざる者食うべからず」の言葉通り、弱者(子供、女性、老人、病人、障害者)は食事を与えられずに飢え死にした。決して自然災害での飢餓などではないのだ。怠けていると見なされたり、反抗する者には容赦ない暴力と辱めが加えられ、無数の人民が(自殺も含めて)死んだ。当時の地方指導者の多くは暴力団以下の人殺しにすぎなかった。そんな中で、善良な人間が生き残るのは難しかっただろう。
 
 文革で見られた三角帽子やジェット機の姿勢も、紅衛兵が発明したものではなく、すでにこの「大躍進」の中で生まれていた。彼らは親たちのしていた行為を引き継いだと言っても良いだろう。しかし、孫、曾孫世代の今の中国の若者はこの時代のことを教えられていないのだろう。中国人のモラルの低さを指摘されるとき、そういう人間でなければ生き残れなかった15年間の影響がいまだに続いているのだということに思い至らない。
  支配層は、自分たちが、かつて人類最大の人禍を招いた張本人の末裔であることを隠すため資料を出さない。だが、歴史はいずれ真実を白日の下に曝すだろう。劉少奇は生存中に罰を受けたが、一方の男は死後も相変わらず建国の英雄、偉大な指導者として崇拝されている。そして、その隣国では「大躍進」の劣化コピーが、今まさに進行している。
 
 清朝末期以来、多くの志士が中国革命に身を投じたが、黄興や孫文、彼らを援助した日本人も含めて、その理想は結果的に、新たな最大の「皇帝・暴君」を生みだして終わったのだった。農民(民工)は相変わらず、いくら死んでも気にもされない存在だ。