枇杷の実

 今日、明日と校内総体(クラスマッチ)。35℃を越す猛暑。熱中症に用心するが、例年より保健室に来る者は少ない。明日も晴で34℃という予想。明日はグランドで全員リレーがある。
 
 採点は伝票〆切りの火曜日に終了。入力して伝票を書く。水曜日には自分主催の会議があって2時間を費やす。SCを含め6人で話すのだが、重い会議である。
 
 今日木曜日、その会議のまとめ、報告を打ち、20日の会議に向けた資料を作る。これでほぼ1日がかり。
 
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 ↑ 中庭にある枇杷の木。実がなっている。枇杷は南国のものと思っていたが、この雪国でも実るのだ。冬に雪折れしたが、かえって多くの実をつけたようである。
 
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 「桃電」で「長崎のビワゼリー」というのが出てくるが、高級な菓子らしい。
 上は、技能技師さんが摘んできた実だが、どうなんだろう、小さいのか、未熟なのか。でも皮をむいて食べると結構おいしい。
 
 
 
 一昨年になるが、全国PTA大会で沖縄に行った。新型インフルエンザの流行した年だ。その時、行事を一部割愛して沖縄観光をした。ひめゆりの塔、平和の礎、山形歩兵32連隊最後の地などを訪れた。
 
 山形歩兵第32連隊は、旧山形城内に駐屯した。沖縄戦では北海道出身者を含め、沖縄南方で作戦に従事した。要するに壕作りである。山らしい山がない沖縄では、遮蔽とする地形がないのだ。米軍が中部に上陸すると前線に出たが、圧倒的な火力の前になすこともなく南下し、壕にこもってゲリラ戦になった。現地召集の兵や民間人がいっしょである。満足な武器弾薬もなく、なんの援軍も来ず、その9割が戦死し、8月下旬に戦いを終えた。その間の悲惨は筆舌を絶する。
 
 自分の伯父は沖縄で戦死した。その骨箱にはただ名前を書いた紙が入っているだけだったと叔母が言う。平和の礎に行く。輝く太陽の下で、そのあまりの多さに目が眩む。コンピューターで名前を検索して場所を探す。打ち出された紙にはその名の刻された石碑の位置が示されるが、同時に書かれるべき戦死の日時、戦没地も何も書いていない。輸送船に乗ったまま撃沈されたのでないかと父は言っていたが、本当のところは何も分からない。刻された名前の写真を撮り、叔母に見せた。叔母はもう足がきかなくて沖縄には行けないから、ありがたいと言っていた。自分はもちろん伯父を知っているわけではない。だが、しかし、32連隊の兵士とともに壕にこもって生き残った沖縄の人たちの証言は、もし伯父がそこにいたら体験したであろうことである。伯父は憲兵であった。 
 
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 山形県出身者の碑に伯父の名が刻まれていた。伯父の存在を初めて実感する。
 
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 戦争とはつまるところ多くの人の死である。その人を失った悲しみである。それ以外に何があるだろう。
 私たちのする戦争批判とは何なのか。何をもってそれを語るべきなのか。
 
 ちなみに自分の父は支那派遣軍の輜重兵で、終戦時は南支で武装解除され、収容所に入ったが、蒋介石によって日本に帰された。その後結婚して、自分らが生まれたわけである。
 
 本県の中学校では沖縄に修学旅行する所が多い。本県の連隊が戦った地ということもその理由の一つではないかと思う。