教育資料館を訪ね、旧知の人と遇う

 6月20日(日)、生徒たちは合唱の練習に登校してくる。AとHが、朝方の強雨でずぶ濡れになり、ジャージ姿で制服を乾かしている。教育資料館へは私の車で行くことになる。Aは昨日電話取材をしてくれて、熱心な子。昼前に到着。旧師範学校の建物で、趣がある。TVドラマのロケに使われたこともある。旧師範学校の敷地は今、ほぼ山形北高校になっている。私が勤務していた頃はまだ敷地の東南角に「分室」と呼ばれる建物があった。(師範学校当時は養護教諭養成所であったらしい。)そこで演劇部が(他に登山部、マンドリン部、新聞部、写真部など)活動をしていた。
 受付で名乗ると、声をかけられる。なんと初任校で一緒だったA先生(彼も初任だった)である。奇遇というか世間は狭いというか。四半世紀ぶりの再会である。いろいろ話をする。資料の中には旧制中学校(新制高校)の図画(圖畫)室の机とか校舎の模型とかがあって懐かしい。他に来館者はいない。
 収穫はあまりない。古い理科室の写真があったくらいか。高等女学校の歴史に詳しいO先生(ずいぶん前にご退職)に電話してもらい、校舎平面図を送っていただくことになる。
 昨日の電話で、詳しいことをご存じだった方は、高等女学校を4年で修了し、師範学校女子部(師範学校とは別の場所にあった)に入学されている。このへんがごちゃごちゃして分からない。当時は頻繁に制度が(終了年限とか)変わっているのだ。A先生もよく分からないようだ。昭和17、18年あたりは5年制で、4年終了もあり、19年には4年制になっているのか?
 ある事件を題材に脚本を書こうとしているのだが、問題が深刻なだけに難しい。限界はあるだろう。内容が辛気くさいからやめろと言う人もいる。60分で書ききれるかどうかも分からない。失敗して、また地区落ちするかもしれない。
 しかし、ほぼ同世代の女の子の心理としてみれば、時代の影響を考えても、共感するものがあるのではないか。昔も今も、教師の生徒への関わりかたの問題が大きいと思われる。
 とにかく今はこれを書かなければ前に進めない(退職近い年齢なので、前といってもなんだけど…)という感じがするのだ。気合いを入れろ!