川西町に行く

 こまつ座の朗読劇を観に、川西町フレンドリープラザに行く。往復2時間。
 上山市から南陽市にかけて新しい道が完成しようとしている。トンネルを通してだいぶ近くなる。山の中を巡って行くのもあとわずかか。会場に着くと米沢の九里高校演劇部のS先生と生徒さんが受付にいた。お手伝いしているのか? 
 
 朗読劇といっても、直立したまま読むわけではない。『水の手紙』では全員台本を持たず、動きながら台詞を言っている。『少年口伝隊1945』の方は台本を持って、基本的に「読む」のだが、演技っぽいこともする。前者は45分。後者でも1時間とちょっとの上演時間だ。これを高校演劇のコンクールに出したら、もう全国大会出場間違いなしだろう。いやプロだから当然だろう。高校生がやったらとてもかなわない。
 広島県舟入高校さんなどは、以前は毎年原爆のことを調べて脚本を作っていた。しかし、井上氏が書くほどの作品は生まれなかった。…比べるのがおかしいか。才能の差であるからしょうがない。
 
 最近ある人から、芝居は8割が脚本で決まると聞いた。こういう言い方をした場合、「~割」の数字は人によって違うが、8割は多い方ではないか。8割方決まるなら、多くの芝居も脚本を読んで優劣が決まるだろう。高校演劇も脚本段階で順位が決められるのではないか、と思うとそうではなくて、同じ演技力・演出力・裏方の力があるという前提での話なのでそうはならない。審査員は、脚本が良くても演技がダメ。演出は面白いが脚本がいまいち、など、いろいろアンバランスな作品を比較しなければならない。
 高校演劇の脚本は、60分という制限もあり、なかなか内容の濃く深いものは多くない。多くの場合作者が教員ということで、本職ではないからあたりまえだが。生徒創作も、多くは作者に狭く短い生活体験しかないから、観念的でリアリティーに乏しい。未消化で生のままだったりする。中にある感情もパターン化されたものになりがちだ。役者の演技力も、プロじゃないから勢いとか若さばかりが前に出る。というわけで、なんとなく「高校演劇」という型枠が存在するようなのだ。ではそこを破った作品が上位大会に集まってくるのだろうか? 必ずしもそうでないのは、【高校演劇の大会には「高校演劇」が似合う】ということなのかもしれない。いや、【高校生らしさ】という絶対的な価値があるのかも知れない。
 審査員も、審査に当たっては事前に脚本を読まないという方が多いように思う。舞台こそが勝負、ということなのだろう。しかし既成作品の場合はもう内容を知っているわけで、創作脚本だけ読まないというのも片手落ちではないのか。脚本を読んだ上で舞台を観て何か不都合があるのだろうか? その脚本をどのように舞台化したか、この台詞をどんな風に言うかなどで、その部の力、活動レベルをより理解できるということもあるのではないか。その点では既成脚本と創作脚本が競うことも可能になってくるだろう。読まなくても、舞台を観れば脚本はわかるというのであれば、高校演劇には脚本を軽視する気味があるということになりはしないだろうか。
 
 終演後席を立つと、こちらを見ている方がいる。ああ、こないだ県大会の審査をしていただいた宮城広瀬高校のS先生だ。挨拶する。生徒さん(3人?)を連れて2時間半かけていらしたとの由。いらした甲斐はありましたね。お疲れ様でした。
 
 帰路、反対車線で大型トラックの追突事故があり、渋滞していた。こちらはすいすい進んだ。去年かな、谷地の「サハトべにばな」に観劇に行こうとして一本道の渋滞に阻まれ、あきらめたことがあった。あのときは前方で交通死亡事故があったのだ。交通事故には気をつけましょう。