今日も練習

 部活の出欠を、一覧表にして貼り出すことになった。明日は人数もそろって、通しが出来そうという。
 少し、小道具というか装置というか、掲示物を作って、それを使う動きを入れた。それで初めて立てたという役がいる。そういえば、彼女の役はこれまでずっと椅子に座っていたのである。
 数人が並んで立つ場面で、それぞれの関わりが見えるようにする。ひたすら場面の意味が明瞭に伝わるようにと考える。
 旧校歌の練習。とにかく声を出すように。合唱部じゃないんだから声量第一で。
 明日は大騒ぎの場面を練習するが、なかなかむずかしい。思ったようにおもしろく騒げていない。考えなければ。
 劇中の演出と、本来の演出がいて、「スタート!」が二重に出るのがおもしろい。演劇部が、ある実際の事件を題材にして劇を作っているところを演じているのでそうなる。劇中劇に出る役者は二役を演じているようなものである。劇中の部員たちもあれこれ考えながら作るので、劇中劇の人物の心情と、それを演じる部員の心情が微妙に重なったりする。
 
 直したところが、次の日には同じように出来ない。演技は微妙なもので、同じように繰り返し出来るというものではない。今良かったものが、次には「再現」になり、「段取り」になり、急速に劣化しておもしろくなくなる。だから、練習でああだこうだやっているときが一番新鮮なのだが、それは本番でそのまま再現できるものではない。永遠に完成しないともいえる。では何のために練習するのか? 役柄、その役の人間性、その場の気持ちをつかむためである。要するに「なりきる」ことだ。その人格が理解できれば、「約束事」でなく、真実味を持って同じような反応が出来るのではないか。だから、形から入っても、必ずその意味と心情を説明することが必要だ。さらに、その部分の演技が、劇作品の全体構成上、どんな意味を持つかも知らなければならない。
 役者というのはなかなか難しいものである。映画には編集ということがあるが、舞台ではオンタイムですべてが進行するから、役者が劇の流れをコントロールしなければならず、要求される役者の力量ははるかに高いと思う。