(一)から続く
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⑨(大正15年 1926) 島津久基『つれづれの意義ー国文學と注釋ー』
『国語と国文學』大正15年7・8月号に発表された。のち、『国文學の新考察』(昭和16年 1941 至文堂)に所収。
島津久基は明治24年(1891)に薩摩島津家の分家に生れた。優秀な成績で東京帝国大学を卒業。大正13年(1924)から病床にあったが、昭和3年(1928)に回復した。本論文は氏が35歳、その病中に発表されたことになる。
気鋭の国文学者の研究は、今読んでみても、非常に実証的であり、その考察の深さにおいても群を抜いていると感じられる。…しかし一文の長さは永積氏を凌ぐ!
序段については、冒頭の「つれづれ」について、多くの用例から詳細な論証がなされているが、それがほぼすべてで、「ものぐるほし」については触れられていない。一部に、「此のつれ〲であることに却つて一層の寂寞を感じて此の瞬間から脱れようとする心持がはげしくありながら、やはり又つれ〲でありたくてたまらない彼の心持は、十分に同感の出來るものであると思ふ。かう解して始めて卷頭の一節がやゝわかつて來るやうな氣がするのである。「心にうつりゆくよしなしごと」も「そこはかとなく書きつくれば」も、「あやしうこそものぐるほしけれ」も、右の「つれ〲」の心持が理解せられゝば、そこから自ら解釋せられて來ねばならない。」と書いてあるだけである。
以下長いが、従来の訓詁注釈的評釈を批判し、全体的・鑑賞的・批評的態度を提唱する部分から、「つれづれ」について触れた部分を引用する。
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一 …在来の國文學研究が久しく訓詁註釋に終始してゐたのは事實である。特に古典に対して漸くその解明の必要が感ぜられて来た近古時代に至つては一層、幾多相繼いで試みられた古典の註釋は徒に屋上屋の煩雜
と冗漫と無意味さとに堪へ得られさへすれば、最後に出た一本をとればそれ以前の註釈の史的縮圖を極めて便利に概觀し得るほど先人の考に対する盲目的な尊重の跡を殘してゐるのである。
(中略)
三 …まことに、我々の先人の訓詁學は、如何にも真摯であり、篤實であり、歸納的方法に立脚して親切な解明を試みたものではあるが、その最も不満足な點は、対象たる作品をーー僅少の除外例の他、多くはーー文獻学的見地からのみ眺めて、國文學として取扱はなかった點にある。その對象が、藝術乃至藝術的の物であるといふことのはつきりとした意識がやゝもすれば忘られがちであり、或は全然認められないものすらあるといふ點である。卽ちロダンの所謂「みる」ことをしなかつたのである。
(中略)
形式的、分析的、辨証的研究が中心であり、内容的、綜合的、直觀的解釋に缺くるところが多く、全一的、鑑賞的、批評的餘裕ある態度の域にまで十分に進めなかつた。
(中略)
五 …源氏物語須磨巻に「つれ〲なるまゝに」とあり、幻巻にも、伊勢物語にも、枕草子にもある語であると指摘して、そこから語義の説明に入らうとする人々があり、或はたゞ指摘だけに終つてゐることもある。その態度なり着眼なり前者に比べて進んでもをり、意義もあるけれども、是は常に古文學に其の典據を求めようとする行き方で、往往古文學の思想や言語で以て悉く後世文學を説明し得るといふ時代錯誤的な謬見の伴ふ危險な方法であるにもかゝはらず、此の餘りに明らかな誤りが、今なほ屡々或場合に殆ど慣習的に解義の一方式として試みられてゐるのを見ることすらあるのである。
(中略) 近來の数多くの小註釋書には、大抵一様に「退屈」と簡単に言つてしまつてあるやうに見受ける。文段抄を増補して「本文にはくだ〱しく註したれど、俗にタイクツといふことなり」と註した鈴木弘恭氏など以來のことであるやうに思ふ。(晩鶯注、明治27年(1894)刊、鈴木弘恭『訂正増補徒然草文段抄』青山堂)
だから若目田武次氏の英譯徒然草にも、書名を”The Idle Thoughts of a Recluse”とし、冒頭の「つれづれなるままに」を”As I remain idle and weary,"と譯させてしまふことになつた。
(中略)いつのまにか「つれづれ」を「退屈」の一語で掩うてしまふやうになつたこと、そして又それをいつまでも其のままにしておくことについて我々
國文學に携はる者自らの罪を深く感ずるのである。
(中略)
六 清少納言は「つれづれなるもの」として 所さりたる物忌、馬おりぬ雙六、除目に司得ぬ人の家 を擧げ、「雨うち降りたるはましてつれ〲なり」(枕草子)と言ひ添へてゐる。そしてその次に、「つれ〲なぐさむるもの」としては、 「物語。碁。雙六。三つ四つばかりなるちごの物をかしういふ。又いとちひさきちごの物語したるが笑みなどしたる。くだもの。男のうちさるがひ、物よくいふが來たるは、物忌なれどいれつ(〔べし〕通釋)かし。 としるした。
しづかな餘裕のある氣持ではあるが、何となく落ちつかぬやうな、物足りぬやうな、心細いやうな、慰めを求めてゐるやうな、さりとて自らそれをどうすることも出來ないかなり複雜した繊細な心境が、「つれづれ」といふ感じの中に含ませられてあることがわかる。
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島津は和歌集を含む多くの用例から「つれづれ」の意味を解き明かしてゆく。
「それには、「退屈」「倦怠」「飽厭」といつた分子がかへつて餘り多くないことを著しく感じさせられるのである。」
「更に又、平安時代人等の用ゐた「つれ〲」といふことばに、全然、倦怠・退屈の感じが意識せられてないとすることも出來ぬ。稀にそれらしい感じを見出すことが出來るが、それは決して此の語の内容の主部、中心ではないのみならず、それほど此の語が複雜な内容を持つことばであることと、又それが爲に後世その意味に展開し移用せられて來た芽生を胚胎してゐる證左となり得るだけである。」
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この「つれづれ」に対する詳細丹念な分析からなる解釈は、従来の解釈に大きな変化を迫ることになった。そしてそれは、必然的に、末尾の「ものぐるほし」の解釈にも大きく影響せざるを得なかった。
ほぼ同時期に、山口剛が「つれづれ」を「混乱錯雜の心の相」と言ったように、印象的、直観的解釈・鑑賞の風が満ちてきた時期でもあったのだろう。西洋からの「印象批評」の影響もあるのかもしれない。
島津は古典に、文献学を超えた文学芸術としての作品鑑賞を迫ったが、それはある意味、実証の不可能な直観的受容を要求するものでもあった。
こうして、批評者それぞれの感受性に応じた様々な(ある意味自由な)解釈が導き出され、受容される道が開けたのだろう。そうしてみると、「つれづれ」も「ものぐるほし」も、いかにもありそうな、深みのある思想を表現したもののように読めてくるのだった。
一方、「つれづれ」を「退屈」、「ものぐるほし」を「気違いじみた(書き物)」=卑下とする解釈も根強く続いた。やはり昭和17年の小林秀雄の評論から、直観的、印象的鑑賞が広く受け容れられるようになったのだろうと思われる。
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(昭和3年 1928) 沼波瓊音『沼波譯注徒然草』(修文館)から引用する。この本では三年前の『徒然草講話』の頭注が【釋】となっており、【評】がなくなっている。
【釋】『つれづれ,退屈。『なる儘に』なるに任せて。『日ぐらし』終日。『よしなしごと』由緒の無き事、卽ち何でも無い事。『そこはかとなく』あても無く、卽はち何を云はうとか、さうした確とした心で無く、思ふ儘を其儘唯書いて行くを云。『怪しうこそ物狂ほしけれ』怪しく物狂ほしと云を強めて云ひたるなり。變に狂氣じみる。書いたものが、なり。
【譯】退屈なのに任せて、終日硯に向つて、我が心にそれからそれから浮んで來るタワイも無い事を、其の浮ぶ儘に、無目的に書いて見ると、さて妙なものが出來上つて行く。非常識矛盾獨斷、まことに變に氣違ひじみたものになつて行く。
【補】「怪しうこそ物狂ほしけれ」と云のは、書上げて仕舞つた上で自ら評した言と解するは中らぬ。又斯うしてこんなことを書いて行くのが、物狂ほしいと自ら評したのでも無い。しばらく書いて行って見て、その書き了つた所を顧みて、これは妙なものが出來て行く、と自ら評したのだ、と見たい。(中略)たゞこゝに「日ぐらし」と云つたのは書き始めた第一日の様を述べたものと見たが可い。そして第一日に書上げたものを顧みて、「怪しうこそ物狂ほしけれ」と云つたものと見て可い。
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⑪(昭和6年 1931) 浅香久敬『徒然草諸抄大成 校訂増註』
【物ぐるおしけれ】●兩説在。先正義には●物狂と書物ぐるはしけれ也。おしといふ事は五音相通なり。(諸)●狂人の口きゝがましき也。卑下の詞也。(參)●又異説には物苦と書。○異説ニ物苦ト書ク△言ハ人ノサセヌルコトゾ、イヤトモイハレズスルニ我心ニ移ル事ヲ書トテクルシムハアヤシキ事トカヘシテ見ルナリ。(盤)○問 モノグルヲシト云フニ物苦ト云義モアリヤ。答 源氏物語夕㒵巻ニモアナモノグルヲシノモノヲヂヤトアリ。其外アマタ所ニ見ヘ侍レド只物グルハシキ心ニ古人ノ註シヲカレタルガ此草子ノ心ニモヨク叶ヒ侍ベシ。(文)○毛詩狂進取一概之義。△韓子云心不能審得失之端則謂之狂(盤)
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(諸)は諸抄通じて同じ説。(參)は恵空和尚『參考抄』延宝6年(1678)。(盤)は踏雪『盤(磐)齊抄』寛文元年(1661)?。(文)は北村季吟『文段抄』寛文7年(1667)。
二説あり、一説は「狂人の言うことのようだ」という卑下。異説は、「物苦」で、自ら執筆することへの苦しみを、不思議なことと他人事のように観察しているというようなことか。物と心、「ものぐるほし」の対象の分かれることを言っている。
また、「ものぐるほし」は「ものぐるはし」なり(五音相通)という説明だが、それで了解されたものか…。
古来の訓詁注釈らしい一面も見せている。
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⑫(昭和9年 1934) 橘純一『徒然草新註』 瑞穂書院
昭和13年(1938)刊の『つれづれ草通釋・正註新註つれづれ草対照用上』(瑞穂書院)から引用。
【通釋】 閑散無聊(ツレヅレ)なのにまかせて(ママニ)、終日硯に對つて▢心〔ノ鏡〕に映つて〔ハ消エ、映ツテハ消エシテ〕行くやくにも立たぬむだごと(ヨシナシゴト)を、とりとめもなく(ソコハカトナク)書きつけたところが(ツクレバ)、〔ソノ書ケタモノハ〕ほんとうにへんに(コソ)、わけもわからぬものであるわ(モノグルホシケレ)。
【評】 終日執筆した何枚かの原稿を、更に讀み直して見て、その感想を書いた體にしてあるが、實は全篇の序である。「よしなしごと」といひ、「あやしうこそ物狂ほしけれ」といつてあるのも、謙遜の辭令であつて、本心からさう思つてゐるのではない事勿論である。かく謙遜の辭をかまへるのが、古来、序や跋の定型である。
昭和31年(1956)『詳説 徒然草の語釈と文法』橘純一・慶野正次(武蔵野書院)から引用。
ものぐるほしけれー軽重の二義がある。⑴重い意味では、狂気デアル・狂人ジミテイル。これが本来の意義であるが、⑵軽い意味では、ワレナガラバカバカシイ・ハシタナイ、これは、親しいあいだがらの会話や、自分のことを謙遜して自評する場合に、ごく軽い意味で用いる。ここは終日執筆した何枚かの草稿を、みずから読み返してみて、謙遜自評しているのだから、あきらかに⑵の用法である。これを普通の注釈書のように⑴の意味にとって、キチガイジミテイルと訳したのでは強すぎるし、何がキチガイジミテイルのかあいまいになって感心しない。(参考)ーここと同じ軽い意味の用例ー枕草子・雪山の条「白山の観音、これ消えさせ給ふな、と祈るも、ものぐるほし」(ワレナガラバカバカシイの意)。
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橘純一(明治17年 1884~昭和29年 1954)の注釈だが、彼は橘守部直系の家に養子として入った人物である。
「気違いじみている」ではその対象があいまいである、という点を衝いている。
筆者晩鶯も、源氏物語の例を見ても、すべて、何が、どういう状況が「ものぐるほし」なのかわかるようになっていることから、この判断に同意するものである。
(ただ、筆者の反省として、当時の小論が『蜻蛉日記』の例についてよく考えないままにスルーしていたことに気が付いている。)
小林秀雄以下は補説(三)に続く