東北大会直前の「隧道」

 15日18:30から山形東高の冬季公演(東北大会壮行公演)を観る。観客は70人くらいか。うちの部員も部活後、半分くらいの人数が観に行った。
 大会直前にダメ出しするようなことを書いてもなんなので、閲覧制限しておく。大会後に全公開する予定。

 市民会館の舞台を八戸公会堂の広さに見立てて装置を組んだので、若干印象が異なる。間口が広く、奥行きがある。奥の高い所で台詞を言うのが少し聞こえにくい。袖からの出入りが長い。
 一般的に高校演劇の装置は中割幕の位置に制限されることが多いが、大会毎に違う会館に行くことを考えれば、会館の条件に縛られないもっと自由な舞台美術を工夫できたらいいなとは思う。あるいは照明によってアクティングエリアを狭めることで観客の集中を導くとか。しかしまた素舞台で広々と使っても全く集中度が下がらない舞台もあるので、何とも言えないのだが。

 練習を繰り返すと緻密になっていく部分と逆に慣れて流れてしまう部分とが出てくる。このギャップをいかにコントロールして全体の統一性を保つか。
 観客の持つ疑問。脚本の設定に対して矛盾を感じるとか、装置や衣装がおかしいとか思い始めると、どうしても芝居に入れず、客観的に観てしまう場合は困るのだが、そもそも不条理な芝居の場合は逆にそれを説明して解決しない方がいい場合もあるのではないか。なぜここにいるのかという根本的疑問にある答えを与えてしまっているが、それは作品全体として強化されているのか弱体化されているのか。極端に言えば、責任者である「社長」の存在も、もっと現実離れしたものであっていいし、あるいは登場しなくても、話の中の存在だけでいいのかもしれない。緻密にするという行為が、説明を加えていくということではなく、主題を純粋に明確にしていく過程であり雑な物を排除していく作業だと考えればいいのかもしれない。たとえばラストでただ一人になった男がツルハシを振るう。その位置が袖側でいいのか。あるいは振るう必要があるのか。手に持つだけでもいいかもしれない。というように削減していく方向で純粋化する方法もあったかもしれない。実は、自分の記憶の中では、男が上に出て月の光を浴びながらラジオに聞き入るという所で幕になるような感じだった。それが良いというわけでは全然ないが。

 まあ自分も含め、いろんな人がいろんなことを言うが、作者は迷うことはない。迷わずに、もっともっと自分の中へと掘り進めて行けばよい。外へではないのだ。

 役者さんもスタッフさんも疲労のピークと思いますが、本番が第一です。無理をせずに、楽しく上演してください。山形から応援しています。


【後日追記】
 今だから言うが、主役の子が熱を出して、一時上演が危ぶまれた。大きな大会の直前にはこうしたアクシデントが起きたりするものだ。事前に知っていたせいかもしれないが、やはり弱い感じがした。東北大会では体調ももどり、最高の集中力で演じられたのだろう。