映画「臍帯」(2012公開)

 DVDレンタルで「臍帯」という映画を観た。何となく気になっただけで、監督も俳優も知らないで借りたのだが、いや、感じる所大だった。少女の拉致監禁という作品説明からおどろおどろしいホラーかミステリーかと思うと、さにあらず。ひたすら生真面目な画面作りである。映画ならではの表現。アップとロングの使い分けが心地良い。曇り空や雨ばかりで陽射しのない暗い画面が基調になる。
 
 誕生直後に、母親の再婚の都合でゴミ置き場に捨てられた女児が、成長後に生みの母を捜し出し、その高校生の娘(父違いの妹になるわけだ)を拉致、監禁する。「あなたの一番大事なものを壊してあげる。大事にされなかった娘より」というメールを母親に送る。4日間、2人は飲まず食わずで過ごす。娘がすべての反抗が無駄であると悟って完全に参ってしまうと、女は監禁場所から連れ出し、母親のいる港の魚市場(加工場?)に置く。やがて母が娘を見つけ、かき抱き頬ずりする。それを見ていた女は母に近づき…。
 
 「自分を捨てた母親への復讐劇」とみれば、捨て子の成長過程での苦悩をもっと具体的に描く方が良かったかも知れない。あるいはかつて犯した罪に対する母親の苦悩をもっと描いた方が良かったかも知れない。母が赤子を捨てるに至ったいきさつや、娘が母を捜し当てる経緯などを描くことも考えられる。母親が、娘の拉致を知った後も、父親にも誰にも知らせず黙っているのも理解しがたいところではある。自分の罪の許しを請うのでもなく、あくまで隠したいのか? そのためには再び我が子を捨てることも辞さないのか?
 しかし、おそらく監督の描きたかったことはそういった散文的な(理屈的な)ことではなかったのではないか。ラストシーンがすべてを語っているといえばそれまでだが、これは「復讐劇」なのではなく、「渇望」を描くことそのものがテーマだったのではないか。
 
 赤ん坊から小学生、中学・高校生そして大人へ、施設で育つ中での母親への思いは、言葉ではなく、ブランコに座り他の親子を見る姿や雨に降られても誰も迎えてくれない姿、自分の捨てられていたゴミ捨て場にたたずむ姿などを延々と映すことで示される。ここを何か分かりやすいエピソードにするやり方もあるだろうが、この監督はそうしなかった。その感覚が自分には分かるような気がする。
 
 薄暗い倉庫の中で2人の姉妹が会話もなく、飲まず食わずで過ごすその空しい絶望的な長い時間こそが、女の「渇望」の深さを表現するのだろう。排泄したい、食べたい、水が飲みたい、そういう欲求すべてを断つことで、自分の求めても得られない苦しさを確認し、幸せに育った妹に追体験させる。
 
 ラストシーンでは娘を生きたまま返すが、そこで終わりなのではなく、その後の母親が娘に示す愛情を見る。かき抱き、なでさすり、頬ずりする母親。思わず近寄っていく女。「おかあさん」と言って抱きつこうとする。振り払う母。女に気づいた娘が恐怖の叫び声をあげる。母は駆け出すと魚をさばく包丁を取って帰り、女を刺す。女は母にしがみつき、「おかあさん抱いて。一度で良いからギュッとして。ギュッとして…」と言いつつ息絶える。
 高校生の娘の4日間の飢え、渇き、そして苦しみは母によって癒されるだろうが、女の20年の渇望は満たされることがない。
 
 母親の愛に飢えるその辛さが画面を見ている者にひしひしと伝わる。この感情の伝達は、長回しのシーンによってこそできるのだろう。台詞は本当に少ない(何か言いかけるような口の動きはある=観る者はその言葉を想像する)。派手な動きも少ない。俳優の表情の微妙な変化。それを丹念に追うことで成し遂げているように感じる。怒った、泣いた、という事実・行動を(短いシーンで)伝えるというよりも、なぜ何に対してどのようにどれほど憤っているのか悲しんでいるのかを細かく表現し、観る者にその役柄だけのその時だけの心情をより深く直接に伝えようとしているように感じる。(まあ、自分の持論に引きつけた解釈ですが。)
 
 2人の姉妹を演じた俳優もこの監督の意図を理解し、忠実に演じていたように思う。素晴らしかった。