最近にはめずらしく宵っ張り

 大震災から3年8ヶ月。自然災害は規模の違いはあれど絶え間なく起きている。噴火や土砂崩れ、台風、豪雨等で多くの犠牲者が出ている。一人一人についてみれば、いずれもかけがえのない命の喪失であろう。生き残った者は亡くなった者を悼み悲しむ。しかし、亡くなった者の想いは終に知るすべがない。死んだ者は語れない。生き残った者は何を語れるのだろうか。
 そこにこそ生き残った者の苦しみがある。
 
 あの年の12月、高校演劇東北大会(山形)で、「もしイタ」の最後に、亡くなった野球部員たちが現れ、主人公と野球をするというシーンがあるのは、だから当然なのだ。「FF~」の中に亡くなった友人が登場するのも然り。あの年の超話題作が、2本とも突き詰めたのは、死者との再会、対話だった。
 渡辺えりさんの「天使猫」を観たものだから思い出してしまった。
 自分の過去の記事から再録してみる。
 
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 今回の大会を振り返ってみようと思う。と言っても、ほとんど上演を観ていないので見当外れのことを言うかも知れない。
 大震災後初めての東北大会。福島、宮城、岩手では命を失った演劇部員もいたし、地区大会が成り立たない所もあったと聞く。そんな状況から生みだされた舞台が強いインパクトを持つのは当然かも知れない。
 
 各上演校のテーマは、詰まる所「生と死」、「生者と死者の対話」だった。では死者との対話をどのようにして描くのか。死者の魂を下ろす霊媒者を用いるのか、井上ひさしのように幽霊を用いるのか、夢のような非現実の場面を作るのか。いずれにせよ、演劇という表現形式ではたやすく死者を登場させることができる。生者が死者に対して自分だけが生き残ってしまった悔いを語る。これは『父と暮らせば』に描かれた、娘と父(の幽霊)の対話そのものである。
 
 今回の大会は、実に、人間の根本に迫る作品が産み出されるべき機会であった。そういう視点から見たとき、どの上演が最も成功していただろうか。審査結果とは別に、そんなことを考えた。
 不在の死者との対話をどのように描くか。死者を登場させて、生者を励ます。生きられる者が生きればいいのだと言わせる。それで生き残った者は立ち直っていく。これが最もストレートな方法なのだろう。
 
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 あの大会の末席をけがさせていただいたうちの芝居「ささやき」には死者は登場しない。
 如何にして登場しない不在の死者と対話するか、が最も重要なことだった。不意にいなくなってしまった死者の想いを、残された者は如何にして確信し、受け取る事ができるのか、だった。
 当時の自分は震災の「し」の字も書けなかったが、親しい人との急な死別という設定だけが、震災犠牲者への想いにつながっていたのだった。それは部員もよく分かってくれていた。