審査員講評の時間には席を外そうかと思う

 今日は2つ目のシーン、2回目の演出。みんなちゃんとプランを持って演出するので指示が明確である。実に頼もしい。今日は音響さんが休んでしまったので音無しでの演出だったからやりにくかっただろう。
 人数も、ボランティア活動で石巻に行った人が多く、休みも含めると7人いなかったので少ない感じだった。今回は人数を生かしたモブシーンがあるので、そこが少ないと格段に見劣りする。歌も少し頼りなかったかな。でも1年生が積極的に演出に取り組むのはすばらしい。
 
 朝の暑くならない内に、史料館を見学させる。昔の制服だの教科書だの写真だの。いろいろ説明していく。この部屋は狭い上に窓が全て潰してあるので夏には長くいられない。写真パネルを1枚借りてきて部室に掲げてみる。みんなよく見ておくんだよ。
 
 
 台本は28頁にまでなった。登場人物に名前を付けられるまでに個別化されてきたのが進歩だ。こうならないとキャステイングできない。ただ、まだ言いたいことを書いているというのが正直な所だ。だから議論みたいになる。これをいかにドラマにするかだ。ドラマにするには「人間」を書かなければならない。「人間」を書かないと、それは空理空論になる。「人間」を書くとは個人の心情に迫るということだ。その時、その人が感じたことを再現するということだ。演技とはそういうことだろう(と思っている)。
 いやもちろん、芝居もいろいろありますから、全然違ってもいいんですが。
 自分はそうだというだけで。
 
 
 取材した方から、昨年の大会作品を(観ていただいたのだ)「少し難しかった」と言われた。定演作品の方が良かったと。そうですねえ、確かに難しかったですねえ。あんな微妙な愛憎表現なんて分かりにくいですよねえ。本当にその通りです。でも書かざるを得なかったというのは何なのだろう。別に純文学を目指すわけでもなく、あくまで個人の趣味の域なんですかねェ。そんなのに生徒をつき合わせて良いのだろうか、というのは常につきつけられる問題ではあります。定演の台本なんか最初は馬鹿にしてましたから。演出で泣かせましたけど、脚本としては破綻だらけ(と見えてしまう自分がいる)ですからね。でもその方が観客には分かりやすくて良いんですよね。自分にはそこがどうしても譲れないというか、できないんですよね。
 
 直木賞が取れるような作家を育てるには、読者を考えて書き方を磨かなければならない。じゃあ、高校演劇もその方向で頑張るべきなのか。高校演劇界から脚本家はいかに輩出されるのか。
 
 まあどうしたって高校演劇の世界に直木賞芥川賞もない。何だかよく分からない審査と評価があるばかりで、要するにその人(演劇経験も方向性もまちまちな人々)にとって面白いかどうかなのだから、そんなところに執着しても無意味だ。評価の結果何が変わるというわけでも、何があるべき姿なのかが見えるというわけでもない。だったら自分たちの好きなように作れば良いだけのことなのだ。大会は上演の機会であるだけで、評価は(俳優のN村M彦さんに言われたのだが、「批評なんて、あんな、まともに観ているのかもわからない人たちの批評なんか聞かないでください」という言葉に従えば)聞かない方が良いのだろう。そうだ今度からそうしよう。失礼かな。