山形演劇鑑賞会第338回例会

 前進座公演 「あなまどい」
 原作、乙川優三郎講談社文庫「屋島」所収「穴惑い」より)  脚本、金子義広  演出、橋本英治
 平成25年8月22日(水) 18:30 開演  21:15 終演  途中休憩15分
 山形市民会館大ホール  2列36番で観劇
 
 穴惑いとは、秋の終わりになってもまだ冬ごもりする穴を探している蛇のこと。遅れてしまったけれど、運が良ければ生き延びることが出来る。主役上遠野関蔵とその妻喜代のことでもある。
 
 緞帳上がると黒紗幕前で上手側に2間ほどの石垣風の1段高い部分がある。青い照明。雨の夜。2人の侍(上士)が台上(軒下の設定)で雨宿りをしている。そこに病気の妻を背負った足軽が走りすぎようとする。しきたりで、足軽が上士と逢えば平伏しなければならない。危篤の妻を地べたに下ろし、平伏する足軽。妻は急に苦しみだし、亡くなる。逆上した男は上士の1人(もう1人の父)を斬る。
 そこから、息子の仇討ちの旅が始まるが、なんとそれは34年の長きに渡ることになる。再会した仇も、討っ手の自分も、もう物乞いになっているのだった。抱き合う2人。しかし、刀を振り上げる関蔵。
 本懐を遂げて帰参する関蔵は60歳を過ぎていた。その間、妻はずっと夫の帰りを待っていた。
 本家の地位(禄と役職)を叔父に預けていたが、その叔父も亡くなり、息子が当主になっている。帰参すれば彼の禄と役職を奪うことになる。また、跡を継ぐ子もいないので、帰参には多々困難がある。
 さて…。
 
 紗幕が上がると中央に3間幅ほどの座敷(開帳場になっている)奥に床の間(になる高い部分)がある。上・下に続く廊下も高くなっている。これらの装置は動いて横向きになると、別の屋敷、城中の一室などに変化する。暗転幕を下ろして転換する。15場あるようだ。背景は幕で、城の俯瞰図が線描で描いてある。下手に庭、池を現す装置も出る。
 紗幕前に2間幅ほどでタッパいっぱいの白い幕が降りてくる場面もある。一度はその前に雪が降る。だいぶ紗幕などに雪片が付いたが、暗転中に払ったのだろうか。
 役者は若い様子から老け役まで見事に変化する。さすがである。
 
 30年以上の歳月を2時間45分で見せる。ストーリー自体はシンプルであり、登場人物の心理も単純と言えば単純である。では長さに飽きるかというとそんなことはない。
 分かりやすい! 歌舞伎の濃密な心情描写の技術を持っているから日本人の感性にガンガン訴える。そうだよなあ、演技ってこういうのだよな、と思ってしまう。
 めまぐるしい変化のない安定した江戸時代、人々は昨日と同じ明日が来る世界で生きていた。そこでは人の思いも変わらない。祖父母の経験が孫子の経験と重なるのだから。万人が同じ思いを持つような時代には、心情の描写はいよいよ深く濃密になっていったのだろう。
 
 
 
 昨日観た劇もほぼ同じ2時間半の長さだが、分かりやすさで言ったらもう前進座の方が圧倒的に勝っている。昨日の劇は確かに音楽や踊り、派手な演出があり、奇想の作品だが、いかんせん歌詞が良く聞き取れなかったり(3列目の自分にも、後列で観劇した人にも聞き取れなかった)、多くの要素が入り乱れて観客の気持ちを一点に集中させることが必ずしもうまく出来たとは言い難かった。脚本の段階でそうなのだろう。井上ひさしだったなら、もっと凝縮した構成にできただろう(そんな比較に意味はないかもしれないが)と思う。
 
 
 嵐圭史もいい年齢になったなあ。簡素と言って良い舞台装置の中で、役者が際立つ。最後には何もない舞台に老夫婦2人が歩くだけだが惹き付ける。役者の力である。
 素人高校生の太刀打ちできるものではない(そんな比較に意味はないかもしれないが)。
 
 思うに、「もしイタ」の最後の台詞、「おれ、ピッチャー!」の喚起する(した)感動が匹敵するかも知れない。「おれ、ピッチャー!」の言える役者(高校生)がどれだけいるだろうか。あれ(東北大会、全国大会での上演)は稽古場で何度も稽古したからといって言える台詞ではない(なかった)。
 
 
 振り返って、うちの部の稽古を思えば、どれほどの感情が表現できているのか。舞台上に無いものは観る者に伝わるわけがない。自分の内に無いものを口先だけで「表現」出来るわけがない。