こまつ座第99回公演

 「うかうか三十、ちょろちょろ四十」 作、井上ひさし 演出、鵜山 仁
 平成25年6月9日(日) 14:00 開場  14:30 開演  15:45 終演
 川西町フレンドリープラザ  ほぼ満席
 
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 学生時代の井上ひさしが書いた作品。と言っても、もうフランス座などにはコント台本を書いていたかと思う。文部省の芸術祭脚本奨励賞を受賞した作品。上演されるのは初めてらしい。
 
 おもしろかった。プロの役者さんはほんとに上手い。堪能した。演出が上手いと言おうか。数日前に観た芝居もプロではあるが、何か違う感じ。脚本の違いか。
 
 緞帳開いている。民話風のセット。舞台最前方に端から端まで長く垂らしてある、桜の花の描かれた布。上下の袖側にも同じ模様のカーテンが下がっている。花に囲まれた中央に草葺きの小屋。絵本風にデフォルメしてある。
 開演すると左右のカーテンが開き、苔むした木の幹が見える。奥にも同様の布が二重三重にあり、あたかも雪に埋もれた小屋のようでもある。布が上下に動くことで心理的動揺を表現する。
 小屋は2間ちょっとの幅しかない単純な四角形だが、回り舞台になっている。屋根は一方の壁の上に付いている書き割り。床は尺高ほどで、沓脱ぎの台(石じゃないな古木みたいだ)がある。裏は雨戸。横は一部開いた板壁、反対側は何もない(照明の都合もあるのだろう)。雨戸を外すと中が見えるが、書き割りのタンスがあるばかり。タンスの裏側も通れる。全体に微妙にゆがんでいて非現実的である(民話、童話風だから当然ではあるが)。最後には壁がすべて外され、崩壊、朽ち果てたイメージで終わる。
 ホリゾントは明るくなっている。この小屋(百姓の家だが)の中と舞台前、舞台端(框)、客席で演技される。客席通路を照らすライトもプロセサスに吊ってある。ラスト近く、舞台全体がセピア色になる照明は珍しかった。
 
 3場構成。9年ごとの春。同じ時季を繰り返すのは「頭痛 肩こり 樋口一葉」など他の井上作品にもある設定。脚の悪い馬鹿殿様(20歳代)と侍医の老人。ドンキホーテとサンチョパンサみたいなコンビで笑わせてくれる。もっとも殿様は内気でシャイで(障害の故なのか)権威のかけらもない。
 一人暮らしのけなげな村娘に片思いするが、彼女はすでに村の大工と夫婦になると決めている。殿様の身分を明かしても娘の心は変わらない。夕焼けが雷雨に変わり殿様と侍医は雨戸を閉めて帰らされる。この時から殿様は(失恋のためか)気が狂ってしまい、奇行を繰り返すようになる(のだが、気が狂ったとは2場の最後で登場する家来の武士の言葉でしか分からない)。
 2場、娘は妻となり、夫は長患い(肺病)のため心も荒んでいる。かわいい一人娘にもつらく当たるのは病気の苦しさ故である。ここに殿様主従が登場、医者を装い、夫の病気は気の迷いで、実は健康そのものであると言って去る。すっかりその気になった夫婦は喜ぶのだが…。
 この場面の夫の演技が良かった。もちろんそれを受けている妻の演技もすばらしい。子役が絡んでいるからますます。
 
 善意の押しつけ。身分差など、相手が断り切れない状況で押しつけられる「善意」。自分のための「善意」は決して人を幸せにはしない、ということが分からない殿様。それは自分が不幸(脚が悪いなどのコンプレックス)であることの裏返しなのだろうが…。
 
 3場。18年ぶりに狂気から目覚めた殿様。すでに40歳代。この間の振る舞いを何も覚えていない。
 三度訪れる、村一番の桜の木がある家。かつての村娘そっくりの娘が登場。殿様は話しかける。桜を見に来たと言うが、この桜ももう最後、枯れてしまうというようなことを答える。
 両親は8年前に亡くなったと。それは殿様の奇行が災いしたのだった。屋敷に来ないかと言う殿様に、母親が言っていた言葉で答える娘。殿様なんかの言うことをまともに聞いたらいけない。あの人たちにはほんのいたずらでも、私たちには生き死にのことになるのだから。
 衝撃を受ける老侍医。雨が来るという娘。舞台は一面セピア色になり、自分はただみんなを喜ばせたかっただけなのだと言う殿様に、ほんとうに人を喜ばせるのが下手な人だと言う侍医。
 雷雨の後、舞台は崩れた小屋。その上に降りしきる雪、で幕。
 
 東北方言(岩手? どこの言葉かは分からないが)で語られる台詞が、民話伝承風のストーリーにマッチしている。内容は人間の追究だろうが、その暗い面を見せ、喜劇性と悲劇性がない交ぜになっている。24歳でこの人間洞察、筆力。才能というものである。
 
 でも未完成の部分もあるような気がするので、再演、別演出の舞台も観てみたいと強く思うのだった。
 
 
 地元、置賜農業高校演劇部さんが「もぎり」などのお手伝いをしていて、最後列で観劇していた。置農さんの定演は来月7日である。