初夏、部室はもう暑い

 土曜日も部活。8時半から14時半。昼前、東高さんにお借りしていたソファを返却に行く。自分の車に積むが、一度運んでいるので積み方が分かっているから楽勝だった。変形なので積み方に苦労したのだ。
 部員さんが部室の外で装置製作中だった。3階の部室まで運ぶためうちの部員3名が自転車で同行したが、東高さんの男子部員が運んでくれた。どうも重ね重ねありがとうございました。
 
 昨日から立ちに入っているが、もちろん台本は手放せない。だからおおよその動きだけである、が、1年生たちは(2年生も含めてだが)どうしたらいいのかよく分からないままにやっている。台詞の間に何が起きているのか、を視覚化するのに慣れていない。台本を「読む」というレベルから「演じる」というレベルまでは大きな隔たりがある。台詞を言ったらそれだけで話が進む、という感じでいるうちは面白くならない。演出はそのへんを考えてプランを練って来て欲しい。というわけで、かなり演出に口を出す顧問。
 
 照明を、正面からも当てるために、以前の鋼管の吊り方ではない方法を考えていたが、黒板と天井の間に突っ張り棒のように角材を入れてそこから吊ってみることにした。早速角材を工作。L字金具などもあるので3本できた。後は継ぎ手と2~3メートルの農業用鋼管(足場用より軽い)を買えばよい。それとも、今ある6メートルのを切ってもいいかな?
 黒板の前には蛍光灯が下がっているので邪魔になる。これを取らない限りは、その間の2メートルほどしか有効に利用できない。吊れるのはせいぜい灯体2~3本だが、まあこれでもいいだろう。東高さんは部室天井の蛍光灯を半分ほど撤去してしまっているが、うちは勝手にそこまでする勇気がない。というか、どうやって取り外すのか?
 
 定演のビデオ、4~5人の方からいただいている。多くの方は引きっぱなしなので、全体の動きは見えるが表情が分からない。どこでアップにするかは、リハを見ていないから難しいのだ。やはり芝居を知っている顧問が撮影するべきである。HD残量を見なかった自分のミスを嘆きます。アップのあるビデオと編集するつもりだが、当面は中間考査の採点が優先。
 
 
 
 
 
 
 
 
 大阪市長の発言が波紋を広げているが、一部の批判は歴史と現在を混同しているようにも思われる。
 女性の権利が認められ、男女差別が取り払われてきた現在の私たちの意識からすれば、江戸時代の吉原などについても、「必要悪だった」と言うことは批判されるのだろう。今、犯罪である人身売買を正当化する言説はありえないのだ。
 しかし、過去においては女衒(人買い)がいて、前借で娘を売りに出す(出さざるを得ない)親がいた。その親、女衒個人を責めても仕方がない。まして、女郎を買う人々もまた普通にいたのだから。それぞれの時代状況というものがある。
 
 戦争が一般市民に及ぼす悲劇は語り尽くせないが、古代から女性が戦利品のごとく扱われた事実もある。70年ほど前にも、連合国軍側でも、そういう勝利者の特権的な暴力が女性に対して行われた。某国軍のように軍自体がそれを容認している場合もあったのだから(日本軍は禁じていた)
 公娼制度があった時代、金で身を売る(奴隷のようではなく、一応年季があるのだろうが)ことが違法ではなかったのだから、慰安婦に身を投じる女性がいても当然であった(当然は今の感覚ではない)。
 軍隊が他国で戦争をしている場合、公娼を自国(当時の植民地も含む)から募集していた。慰安所は民間人(それなりの人だろうが)の運営で、兵隊が金を払って、避妊もして(避妊具が支給されていた)利用する場所だった。これを組織的売買春と言うかどうか。その行為で金を儲けていたのは誰か?
 慰安所がない場合はどうだったのだろう? 某国軍のように、「自由恋愛」として一種の現地妻を認めるのか?
 
 少なくとも、歴史的事実を客観的に知ること、妄想的に誇大過ぎる数を口にして民族感情を煽らないことが必要だろう。一度口にした根拠のない数字が一人歩きして、「とんでも説」が「常識」になるのだけは避けなければならない。まして、それが特定の国の利益のためだったりしたら人類の不幸である。
 
 若い人は、一冊の本の主張、一人の主張だけを鵜呑みにしないで、反対の主張をする本、人にも耳を傾けることだ。事実を客観的に知ることが一番で、感情的な表現(某国のアナウンサーの口調を思い出してみればよい)は割り引いて受け止めるのがいい。
 
 
 
  とここまで書いたが、今外国でも問題にされているのは、もう日本が国家として女性を強制的に連行(拉致)し、奴隷的に行為を強いていたということを既成事実として、それを前提にした非難なのだった。「なぜ日本はまじめに謝罪しないのか」というところなのだった!
 もう事実がどうのこうのではなくなっている。彼らの主張する「事実」が批判しようのない事実であって、それを一度は(某談話で)認めたのにまじめに謝罪しないのはけしからんということなのだ。
 
 慄然とせざるを得ない。「田中上奏文」の例もあるが、存在しないものが事実として広まり、そのイメージが拭いがたく世界の人々の中に残ってしまう。日本がそんな国だとなれば、原爆も神の罰であり、アジア人の復讐であるという言説が自然に出るし、受け容れられることになる。これは恐ろしいことである。
 
 存在しない民族的犯罪をつくりあげ非難する。これは悪質なレイシズムではないのか。