雑感

 中国映画「1911」、孫文や黄興に視点を置き辛亥革命を描いた映画だ。ジャッキー・チェンが黄興を演じた。国外で清朝打倒の資金を募る孫文と国内で起義(武装蜂起)を繰り返す黄興。2人の友情、孫文の革命に対する情熱(アメリカで西洋人相手に行う演説など)、武装蜂起の中で命を落とす若者たち。
 清朝末期の朝廷がどうしようもない旧弊固陋の体制で、それに孫文三民主義が取って代わるということだが、欠けている視点があるのではないか。共産党の中国ならば工場労働者、農民の苦境を描くべきではないのか。ロシアの革命文学はそういう階級のものではなかったか。まあ当時、まだ中国共産党は存在しないわけだが…。抗日がないのは良いが、代わりに、日本に留学して宮崎滔天らの支援の下、革命評論などを発行していた時期の事も描かれていない。
 
 もし農民の苦難を描いたら、それは過去のことでなく現在のことになってしまうという皮肉な現実があるから避けたのではないか、というのは邪推か。異民族支配と西洋帝国主義の植民地化圧力からの脱却だけをテーマにし、中国の正当性を強調(被害者意識の刷り込み)しているようも見える。これはアヘン戦争の映画で林則徐を描いたのに似ている。
 地主に虐げられる革命以前の農民の姿を描いたらそれはただちに地方政府(共産党)幹部から暴力的に搾取される現在の農民の姿に重なってしまうだろう。それは21世紀の革命奨励につながるから、現政権にとってはまずいだろう。
 
 急激な経済的発展と同時進行する環境破壊の恐ろしい影響。先進国の前例に学ばず、ただ金銭的利益を追求してきた結果ではないか。二酸化炭素排出どころではない、殺人的な空気汚染、水質汚染が広大な範囲で起きている。もうエチゼンクラゲがどこから来るかというような問題ではなくなっている。ネットの中には中国に進出した日本の製造業が排出しているというような批判? も見かけたが、そんなのはもう支離滅裂と言う他ないだろう。しかし、真に受けて憤慨する人もいるかもしれない。
 長年の教育で民族差別(反日はもう国家的レイシズムの段階になっているのではないか。国際的に問題にすべきではとさえ思う)意識が染みこんでいるから、短絡的に行動に結びつく。日本人と聞いただけで殴るとか、同国人でも日本車に乗っているだけで後遺症が残るほどの暴行を加えるとか。そして反面では日本にいる同国人が同じような目に遭っていないかと心配する。人は自分の身の丈に合わせてものを考えるものだ。
 
 戦前、やはり中国に多くの日本企業が進出していた。そして昨年の反日暴動のようなテロも起きていた。当時の新聞を読むと良い。昭和12年、満州中華民国の緩衝地帯になっていた地域で小競り合いが起き、現地での和平交渉の甲斐もなく戦線は拡大していったのだが、廬溝橋の最初の一発はにらみ合う両軍の間で共産党員の手で放たれたものだという説があるし、その後起きた通州での日本人・朝鮮人虐殺も、意図的な誤情報によって引き起こされたとする説もある。
 相手を戦争に引きずり込み、持久戦で勝つ。相手側に最初に戦争を始めさせる(形の上だけで良い)のは常套手段だ。射撃管制レーダーを照射して、もし日本側が応戦していたら、必ず日本側からの攻撃という宣伝が繰り広げられたことだろう。あとは宣戦布告無しの、なし崩し的な戦争状態への突入である。それは日華事変の再来だろう。
 しかし、本土での陸上戦闘ではないから、どんな持久戦ができるのか? 舟による人海戦術なのか? 懸念されるのは、今回の失敗で面子を傷つけられた(と感じる)中国(軍部)が、必ず報復するだろうということだ。同様に日本側から照射を受けたとして一方的に攻撃してくるかもしれない。あるいは、通州事件のように日本人へのテロが起きた場合のことだ。
 
 世界大戦を戦い、深刻な敗戦と反省の中から平和的発展を遂げた国と、戦後も内戦・内乱(階級闘争)を繰り返し、疲れ果てた末に、経済だけ自由主義を取り入れて虚妄の発展を遂げた国の対立。一方は他方に莫大な平和的援助を行ってきた。これがなかったら現政権はとっくに倒れていたのではないだろうか。
 
 アメリカは世界大戦中は共産勢力と手を結んで反ファシズムの戦いを行ったが、実は、伝統的に共産主義というものへの理解がなかったのだろう(朝鮮戦争を戦うまでは)。移民たちが作った国にはそもそも封建主義が無く、反地主もなにもありようがなく、一気に自由の国になったのだから。