劇団山形第76回公演

 『正太くんの青空』 作、高橋いさを  演出、安部信子
 平成25年1月19日(土)
 山形市中央公民館(アズ七日町)6階ホール
 開演 (14:00)  終演 15:38  昼の部を観劇 招待券で入場  夜の部は18:30開演
 入場数 9割方埋まっていたと思う。すごい入りだ。キャパ600だから500人以上は確実。
      (うちの折り込みチラシ560枚ほどは昼の部だけでなくなったろう
 
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 最初に、この作品は2010年の作のようだが、これとほぼ同じ設定の芝居で2009年に劇団昴が上演し、NHKで放映された『親の顔が見たい』(作、畑澤聖悟)とどうしても比べざるを得ない、ということをおことわりしておく。
 
 階段から落とされて足を捻挫した小学6年生の正太。日頃から持ち物を隠されたり壊されたりしている。目撃情報などから、同級生の2人が犯人であると断定され、両親が呼ばれる。学年主任と担任は事情を説明するが、親たちは証拠があいまいだとして否定する。被害者の母親は逆上して、加害者のいる校長室にたてこもりカッターナイフをかざす。あわてる人々。タレントである父親の芝居っ気たっぷりの言動、産気づくその妻、それを診る別の親は教育長と親密な医者。実は妻と別居中。目撃者でありながら調子のずれた技能士頼りない若い担任。自分もいじめられた経験のある、正義感ある音楽教員。児童の前でだけ愛想の良い学童保育係の教員。鬱病で休んでいる校長の代わりにこの場を仕切る学年主任。(これらの人々のてんやわんやがギャグタッチで、前半の深刻さとやや不釣り合いに感じた。)
 校長室内での話し合いで子供たちは素直に謝り、被害者の母親も納得して事は解決する。被害者も加害者の子たちと友達でいたいという気持ちが強く、相手の名前を言わなかったのだと。
 それを聞いて他の親たちも子供の将来を思って事実を曲げようとしていたことを告白し、謝罪する。
 めでたしめでたし。
 
 幕が上がると会議室。蝉の声で夏と分かる。ピアノの音色が断続的に聞こえ、音楽室が近いのかと思わせる。緞帳と中割幕の間、奥行き2間ほどに平台が敷き詰めてある。正面奥、3間半ほどの壁。高さは9尺以上あるようだ。床との境の掃除機当たりの部分、腰板の部分、天井近くの梁?の部分ときちんと分けてある。コンセント、電灯のスイッチもある。色はベージュ系。左右に引き戸がある。これが1枚戸で取っ手が付いているのでドアに見えた。2枚戸にして1カ所では駄目だったのか? 戸には窓があるが白くなっていて見通せない。奥は廊下。習字の紙などが貼ってあり、小学校らしくなっている。
 同様のパネルが、上・下にハの字に開いている。上手は袖幕に付き、下手は校長室。その前が袖内に去る通路になっている。背景は黒幕、緞帳から舞台端まで黒地がすり。
 上手壁には賞状と絵の額が4~5枚。ソファ(3人用と1人用)と丸テーブル。プラスチックのくずかご。中央に会議室の長机3脚。正面と左右でコの字になっている。折畳み椅子。奥、壁の前に移動式黒板。
 下手、ドアを隔てて校長室。やや屈折して開いているパネルにはめ殺しの窓(硝子なし、内側にカーテン)。この窓越しの会話があるのだが、一方で声が聞こえないという設定の場面もあり、矛盾を感じた。思うに、窓でなく、ドアを少し開けて会話したのではないか? でもきっと台本にそうあるのだろう。
 劇中、被害者の母親が、加害者の子供と校長室に立てこもるという事件が発生する。すると、人々が会議室の長机を壁に寄せ、椅子を折りたたんで片付ける。事件解決後、教員が元に戻すのだが、自分にはその広くする必然性が分からなかった。
 この作品の初演は100席程度の小劇場で演じられたようだ。だとすれば、間口6~7間に組んだこのセットは、大きすぎたのではないか。小会議室で、親同士の距離ももっと近いのではないか。(これは、高校演劇においてよく演じられる『七人の部長』のセッティングに対して言われることに似ている。)
 以上、舞台装置の面から、造りは本当に良くできているにもかかわらず、若干の違和感を受けた。
 照明は、雨の場面で暗くなるとか、終盤で夕焼けになるその夕陽の差し込み具合とか、プロの方なので安心して観られた。
 
 演技・演出について。前述の『親の顔が見たい』は、都内私立中学校での陰湿で執拗ないじめの結果自殺した少女について、加害者の親たちと教員、被害者の母親が緊迫のやりとりをする。ほとんど嫌悪と拒絶を感じるほどの表現。その印象は強烈で、いじめの問題の深刻さを浮き彫りにしてあまりある。
 それに対して『正太くんの青空』は軽く、明るいタッチが要求されているようである。
 その軽さと問題の深刻さのバランスが、いまひとつとれていなかったのではないか。(それは脚本の段階で既に存在している問題かもしれないが。)ああここは笑う所なんだ、ああここは笑わない所なんだ、と修正しながら観ていたような感じがある。役者の演技にもその辺の戸惑いがあったように感じられた。
 
 疑問として残ったこと。正太の遺書めいたメモの末尾の「ぴょんぴょん」は結局何だったのか。最後の学年主任の「バカヤロー!」は、もっと、この問題に対する教員の(作者の、さらに言えば観客の)やりきれない思いを込めたものではないのか。「ああせいせいした」で終わった感があるが、それでいいのだろうか? 
 被害者の母と話しただけで改心する少年たちは、素直で良いということになるのか? そこで親たちも改心し、自分たちの離婚目前の状況であることまで皆に披露するのか? そのリアリティーってどうなのか
 
 集客力抜群で、その上演する芝居も高い水準を維持している劇団山形。今回は脚本とその解釈に若干の問題があって、惜しいことだが結果的に、十分感動的な舞台とはならなかったように思われる。昨年の『くちづけ』の出来が良すぎて、観る側の期待値が高かったということになるのか…。