ひさしぶりの休日

 このブログを始めてから2年半になろうとしているが、この間、自分の関わる高校演劇部活動にとって大きな出来事が続いた。
 昨年一昨年と、幸運にも東北大会(福島・山形)、全国大会(香川・富山)、春フェス(仙台)を観ることが出来た。本校部員が東北・全国の生徒講評委員(全国では委員長)を務め、昨年の東北大会には出場することも出来た。あの大震災の年、「もしイタ」や「FF~」と同じ舞台に立てたのは光栄なことだった。あれは、被災地東北の高校演劇人が魂を捧げて渾身の上演を繰り広げた、ハイレベルな大会だった。
 
 一度こういう経験をすると、単純に芝居作りをしていても、どこかに、さらにこの幸運が続いていくのではないかという、期待というか思い込みというか、妙なものがつきまとってしまう。
 だがこの評価は芥川賞のように新人に限って与えられ、その作家に永遠に与えられるものではないので、大会に参加する限りその評価による権威(?)は毎年更新され、継続しない。長く顧問をしている場合、「権威」を維持するには、毎年上位大会に進むという実績を示し続けることが必要だと思うようになる。そのために、純粋に芝居を考えること以外の余計なこと(勝つために何をするか)を考えるようになるとおかしくなってくる。自分のところも今年度は県大会止まりでがっかりしているが、自戒、自戒。
 
 大会の審査は、高校演劇の現顧問や顧問経験者にプロの演劇人が加わって行われる場合がほとんどだが、現役顧問の場合は、今日の審査員が明日には審査される側になるという、妙なことになっている。また、点数化できる競技の審査と違って、芸術の評価は基準が難しい。過去に優秀と認めた作品との比較や、審査員の持っている演劇観に照らしての評価になるだろう。だから、評価の観点、注目するポイントは人ごとに(つまり大会ごとに)微妙に違っている。その微妙な観点の差によって上位大会には進めなかったが作品としてはすばらしい芝居が全国には山ほどあるのだということをよく理解しなければならない。
 
 ここまで、高校演劇の評価とそこから生まれる「権威」について考えてみました。この問題は非常に難しく、審査員批判に受け取られかねない面もあり、発言しにくいものです。ただ、高校演劇の審査の本質、つまり、こういう微妙な側面を持ちつつもこうするしかないという宿命を感じて嘆息するだけです。
 
 
 読売新聞10月25日朝刊の文化面にある「音楽季評」で、望月京氏が20世紀オペラの上演に関して書かれていますが、舞台芸術の本質を言い表していると思います。一部引用させていただきます。
 
引用開始
 
 しかし、これらの作品が多くの人の心を打つのは、決して題材の時局性だけによるものではない。多忙な日常から暫し離れ、早回しも、編集も利かない時空間で「他者の物語」に身を委ねる。リアルタイムで作り上げられてゆく「劇場」という場所自体が、感覚を拡張する装置だ。虚構はいつしか現実と紙一重になり、「他人事」は「我がこと」のように心身にしみこんでゆく。理屈では説明しきれない、そうした生(なま)の共感作用は、一回性の芸術の持つ根源的価値だろう。
 
引用終了