昼酒はあまりよろしくない

 我は勇みて行かん。九代目松本幸四郎の「ラ・マンチャの男」1200回ドキュメント。さすがNHK、やるねえ。役者のすごさ、芝居のすばらしさに感動した。
 松たか子の語る、「この人達は親の七光どころか、八光、九光なんだ」という言葉がおもしろかった。歌舞伎役者なんて先祖代々役者なんだから、先代、先々代あって自分の演技があるというものすごいことに気づくわけだが、伝統芸能のすごさはそこにあるのだろう。天皇家は125代(継体天皇からでも100代)続いているから、もう、すごいの極みである。
 
 やはりNHKのEテレで全日本高校大学ダンスフェスティバルを見る。高校に創作ダンス部ってあるのか。これもすばらしかった。高校生の持つ潜在的な力を知るには、演劇だけでなく他の文化部活動をも見なければならないと思った。
 
 
 高校演劇で、「観客(高校生)の理解力に応じていない」という評について少し考えた。
 脚本・演出が下手で不明瞭なため伝わらないのは論外として、どうしてもそのような脚本・演出になるしかなくて、観客たる高校生にはムズカシイので分からないという場合。(講評委員の生徒はかなりの理解力を示すのだが)
 観劇後3日くらい後になって、ああそうなのかと気づくような理解だってあるのではないか。大会だからそんなに待っていられないわけだが。観てすぐにすべて理解できてしまうことだけが良いのかどうか。何かひっかかって、もやもやして考え続けてやっと分かるようなのは駄目なのか。もちろん感動もなくて、話も何だか理解できないのではどうしようもないが、訳もなく涙が出て、どうして泣いたんだろうと何年も考えるような芝居だってあっていいのではないか。
 その日その時に会場にいて観劇した体験(感動)が、ずーっと観客の中に残って作用し続けるというようなこともあるのではないか。完全な理解に達するのに長い時間を要する。この場合、その上演は失敗だったのか成功だったのか。
 高校演劇の大会作品にそんな要素を入れられたら評価なんてできないかもしれない。でも自分は、『タマゴの勝利』を思い出す。
 
 別の話。
 脚本を書いていて、(たかが60分なのに)きれいに一つの話になるということがあまりない。複数の話が交錯しているような作りになってしまう。これは、今の自分の頭の中をさらけ出しているわけだから当然そうなる。バラバラの話であるのだが、自分の中のどこか根っこでは通じている。しかし自分でも意識化できていないのだ。まあ、下手なんでしょう。
 あと10年くらいして人生も終わる頃には頭もすっきりするだろうから、もう少しすっきりした脚本がかけるかもしれない。
 新藤兼人が晩年に監督する姿をテレビで見ると、なんか実にあっさりと簡単に演出して撮影しているように感じる。役者さんも一流だからすいすい撮影できるのは当然なのかもしれないが、監督の年齢というものが、何か大きな働きをしているように思われる。「熟練」・「練達」というのとも少し違う、極意を得るとか、神に入るとかそんなものだ。そこには何か小さなこだわりが消えて、本質が見えれば良いという態度があるように感じるのだ。松本幸四郎の演出は実に細かいから、この流れで言えば幸四郎はまだまだ若いということか。すみません、法事の昼酒のせいで少々変なことを書いていますね。
 
 もう一つだけ、幸四郎が若いときに先輩から聞いた言葉。
 「昭暁くん、一ヶ月お疲れ様。一つだけ言っておくけどね、役者はだんだん上手くなるんじゃなくて、だんだん下手になるんだよ。上手くなったと思うのは錯覚による」
 これもすごい。自分も肝に銘じよう。