明日から出勤

 13日に墓参り、お寺へのお盆礼。雨を見越して午前中に花を供えた。昨日は買い物。
 酒田南高校の試合が雨で順延となる。今年は選手宣誓に当たったが、遅い初戦の相手は明徳義塾
今試合が終わった。3-2の結果、惜しかった。
 明日から出勤。3年生の課題点検。
 
 
 高校演劇全国大会の結果について、舞台美術賞を大船高校さんとばかり思い込んでいた。実際は作新学院高校さんだった。その舞台装置は、水色の5尺ほどの高台(いくつもの段数の違う階段が付属してピラミッドのように見える)が斜めに置いてあるというシンプルなものだった。照明が微妙に変わり、下手から暖色系、上手から寒色系が斜めに同時に当たったりしていた。この台上(1間×2間くらいの広さ)でいくつかの劇中劇が行われ、階段の上り下りもあるが、台の下、舞台面でも踊ったりするので、この台自体が small world を表現しているというわけでもないようだった。
 講評内容を知らないので、舞台美術賞となった理由がよく分からないが、斬新と言えば斬新である。この芝居を、普通に舞台面に机とかを置いて演じたなら、ずいぶんと違った(文字通り平板な)感じになっただろう。その意味ではこの装置の果たした役割は大きいということか。
 
 観劇において、観る側のコンディションは大きな要素だろう。夜中バスに乗り続け、その足で会場前に並び、着席したら疲労困憊、では集中は難しい。いや、『新釈姥捨山』はそんな観客をもつかんで放さなかったのだが、その後の3本には集中しきれなかった。座席が舞台から遠すぎたのか? いや、1階に座った生徒達も同じようだったから、やはり疲れのせいなのか。
 実は2日目も3日目も同様だった。申し訳ないことだが、上演された芝居の半分には集中しきれなかった。(また実は、昨年の全国大会も全上演に集中しきれたわけではなかったりする)
 各ブロック大会最優秀の芝居ばかりなのであるが、2位の芝居が集まった春フェスタと比べてみると、必ずしも最優秀の芝居の方が良かったとも限らなかった(もちろん自分の感覚の上でのことに過ぎないが)。観客自身のコンディションや会場の広さといった条件以外に、芝居自体の持つ要因もあるのではないか。展開のわかりにくさ、立ちっぱなしの会話、動きっぱなしの会話。演技・演出の浅さ。芝居が客席に十分届いていないのではないかと感じることもあった(距離の問題ではなく)。
 『掌』の、きゅうりの精の台詞。短いフレーズで繰り返される台詞がストレートに観客の胸に届く。饒舌でもなく、間の弛緩もなく、気持ちよく進んでいく。観客を置き去りにしない。きゅうりの精だけでなく、登場人物の台詞全体がそうだった。とても良かった。
 地区大会、県大会、ブロック大会と進むうちに、「慣れてしまう」危険性。そして失われていく新鮮さ。「奇跡的に」(それは「偶然に」と言い換えられないか)現れた「良さ」が二度と戻らない。それは、演ずる者の内面(=その芝居の精神?)が深化しない(あるいは維持できない)からであろう。『もしイタ』は逆に、努力して自分たちのメンタリティーを高め、あの芝居の持つ精神を深化させたのだ。
 そもそも、全国大会まで1年間、同じ芝居を続けなければならないが、その間にも次年度の地区大会に出場しなければならないというローテーションに無理があるのだから、出場校も大変には違いない。この辺が、春フェスタで観る感じとの違いの原因なのかもしれない。