全国大会研修観劇終了

 昨日夜7時半頃、富山市から帰ってきた。3泊4日(車中1泊)での研修観劇。2校の生徒27名と引率3名だった。朝早くから列に並び、昼は入れ替えで炎天下に並び、昼食もままならないという状況だった。年寄りにはつらい。
 大会結果は、帰途のバス車中で、ツイッターで5時40分より少し前に知った。ほんとに速報で知られるのだからすごい。自分の中での(良かった芝居)は、「もしイタ」「日の丸水産」「掌」「ヤマタノオロチ外伝」だったから、納得の結果である。
 「新釈姥捨山」は、あれだけの舞台技術てんこ盛りで、見事な転換もあり、大人数の動きの処理、歌、踊りもすばらしいので、優秀賞から落としたら審査員に石が飛んでくるだろう。あの舞台装置を20分で仕込んで10分で撤去するのかと思うと空恐ろしい。まねの出来る部は他にないだろう。ただ、姥捨てという前提、大枠があってのお話で、姥捨ての、何か本質的な部分を突くというようなものではなかったのではないか。音楽などで盛り上げて感情を揺さぶる技術はすごかった。
 「日の丸水産」。ミステリー小説のような構成で引きつけた。網元の娘を殺した妹の代わりに死のうとする姉の心境。死を覚悟しての神楽踊りの美しさ。見事だった。
 ただ、津波で壊滅した村の網元の娘に成り代わり、村を再興する、その子孫が自分だという語り手。その語り手(高校生)もこのたびの津波で一切を失っているが、先祖の意志に習って自分が日の丸水産を再興すると決意するという設定は、60分の中ではやや無理付けの感がないでもなかった。網元の娘を見知る者がまったくいなくなるというのもやや肯けなかった。でも、芝居の傾向としてはうちの部の目標にさせていただきたい作品であった。
 
 被害の大きかった3県以外から津波をモチーフにした作品が出て来たのにも驚いた。「掌」もそうだ。きゅうり達が津波にのまれ、のまれながら少女を捜す。きゅうりの表現が秀逸だった。
 自分が地震津波が描けないなどと言っている間に、このような作品が作られていた。「掌」ではまだ遠い地の出来事としているが、「日の丸水産」は三陸海岸の漁村を舞台にし、方言もしっかりとしていた(「新釈姥捨山」の方言は架空方言かと思われた)。しかしその中での「津波」は、ミステリーの仕掛けの一つでしかないようにも読める。真っ正面からこの大災害を描く作品ができるまでには、まだ日数が必要なのではないだろうか。
 
 「もしイタ」。東北大会では下手袖から、前半しか観ていない。今回初めて全編を正面から観た。正直なところ、この作品はお話としてはマンガみたいな構造である。装置も音響もない。照明も地明かりつけっぱなし。衣装はジャージ、Tシャツ、運動靴。部屋の中も外も関係なく、靴穿きっぱなし。主要人物以外区別が付かない。しかし、そんなことは遙かに超越していた。
 自分のようなひねくれた考えの持ち主は、この芝居を持って被災地を巡るなんて冒涜的ではないかとさえ思ってしまうのだった。しかしそれは臆病の裏返しでしかなかった。飛び込む勇気を持たなかっただけのことだ。
 被災地行脚を続けた彼らの苦行は、彼らを見事にヨリマシとして育て上げた。生徒達に下りてくる霊魂は、作中の人物であるとともに、この作品を避難所で観た被災者達の肉親であり親友となった。その意味で、まさにこの作品はリアリティーを持った。お話だけ読めばなんということのないこの作品が、被災者達の心を受け取り、持ち続け、ここまでになったのだ。おそらく、東北大会でのレベルをずっと超えていたであろう。
 芝居にはリアリティーが必要だ。それはリアルな装置や衣装であるかもしれないし、リアルなストーリーであるかもしれない。だが一番の真実は演ずる者の中にある。
 高校生のパワーなんていう言葉でこの作品の持つものを言い換えてほしくない。この作品は、この大災害時に高校演劇の成し得た、歴史的成果として記憶されていいものだと思う。
 
 「掌」。青春だなあ。とても良かった。
 「ヤマタノオロチ外伝」。スペクタクル。声が良く通る。群舞的動きすばらしい。鉄器文化の到来が人々の生活を豊かにする一方、鉄剣が人間同士の戦いを激化させる矛盾。観客に正面切って挑むような台詞。なかなかいい感じだが、情緒的には、幼なじみと心ならずも敵対しなければならない苦しさに流れてしまい、文明批判の矛先が鈍ってしまったのではないか。照明に凝っているが、高校生には手に余ったかもしれない。
 
 
(追記)舞台美術賞について誤解がありましたので、削除しました。