第6回春季全国高等学校演劇研究大会

 昨日24日(土)と今日25日(日)は仙台市愛子、広瀬文化センターでの春フェスタを観に行った。部員も昨日は2年生2人、1年生5人。今日は2年生5人、1年生7人が仙山線で行った。600席ほどの会場だが、ほぼいっぱいの入場者。受付でもらったパンフが総カラーで美しい。
 
 2日間8校の上演を観劇しての感想を書いてみます。まったく個人的な好みで書いていますので偏っていることをお断りしておきます。書けるものから書いていきますので、上演順ではありません。
 
 総じてレベルは高く、観ていておもしろかった。会場が適当な大きさで見やすかったこともあるだろう。役者の演技や、舞台表現の技術は高度で素晴らしく、東北大会の最高レベルをそろえた感じだった。これが各ブロック2位なのだとすると富山での全国大会はどうなるのだろう。
 
 
『福高創立110周年記念作品 田頭諒という男』作、福高演劇部 featuring DJ Ryo  岩手県福岡高校
 
 「34%の真実と27%の嘘と39%の田頭の汗でできている」というキャプションの意味はたぶんこうであろう。
 劇中、釈尊の前世である兔のエピソードと、虎と対峙する話が続いて語られる場面がある。旅の途中に倒れた主人を救うため、狐と熊と兔が食べ物を探すが、兔だけは見付けることができず、我が身を焚き火に投じて主人に供する。これは「捨身施虎」とほぼ同じ内容である。だから、次に続く「虎に勝つためには自ら食わせる」という田頭の言葉も兔の話と類似のものかと思ってしまう。前回、東北大会で観た時は、だからよく分からなかったのだ(運営側で気持ちが落ち着いていなかったためでもあろう)。
 だが実は2つは相反するものであって、前者が苦しむ者への全的な自己施与であるのに対し、後者は絶対に勝てない相手との(意味上の)立場を逆転する企みである。
 要するにこうだ、「大震災の被災者でもある自分がこの状況の中で演劇をするとはどういう事か」(be先生、最初からそう言っていますよね)。
 他の、音楽系の部活のように、(もっと激烈な体験をした)被災者を慰めるために演劇をするのか、しかしそれは本当に被災者の心に届くのかという一抹の疑問。
 一方、自らも震災の被害者であるという意識。被災県の代表として他県の人の前で演劇を見せるということ。自分の苦しさを舞台上に、観客の前にさらけ出すことの意味。
 2つの立場に引き裂かれた演劇部の顧問と部員が到達した地点がこの作品だった。
 それは唯一人立つ田頭諒という役者個人の、関西出身でありながら東北の岩手県に住むという、いわば二重国籍の立場と重なっている。
 こうして、震災以後の数ヶ月、校内でDJを続けるが、演劇部の活動を存続させたいという気持ちが報われないままに日々が過ぎていく。その経過をほぼそのまま見せるという芝居ができあがった。
 一人芝居は結局(話芸のように)観客に直接語りかける形になるのだろうが、DJという設定はそれをやりやすくさせた。
 
 もう1つ混乱した理由には、このDJの手伝いをしているtossanと、行方不明の田中たつや(tassan)がいるということがある。今回は舞台に上がらなかったが、東北大会では音響席から登場して田頭と会話した。死んだ田中が現れたのかと思ってしまった。
 
 この作品、2度観ることでやっと理解できたように思う。やはり、この作品だけは東北大会で客席から観ておくべきだったのだ。実によく作り上げられた1人芝居だった。
 
 装置は、黒いパンチで3間ほどに区切った上にパネルが5枚立っているだけである。演技空間は狭められているが、照明へのこだわりが強く出ている舞台だった。
 
 音響の田中が震災で亡くなったという設定は虚構だが、田頭の存在は現実である。
 
 田頭君に聞いたら、東北大会で一瞬登場し、田頭=電動のギャグをかました山下さんは、本当に引退してしまったのだそうだ。