今日も夏季特休

 だけど部活には顔を出した。朝一番に医者に行き(先日のとは別の科)、少し台本を打ってから部室に。全員はいないが、本読みをしている。少し聴いてアドバイスする。もちろん、生徒演出がダメ出しした後にだが。
 昨日も言ったのだが、悲しみとか怒りとかパターン化した感情を台詞にのせてぶつけるのではなく、その役柄の人間がその時、その事に対して感じた感情を表さなければならない、と。そうでないと人物造形が薄っぺらなものになってしまう。台詞の一言にこめられるものはもっと複雑で豊かなはずである。そのような台詞のやりとりによってこそ、深みのある芝居が創り出されるだろう。
 ちょっと動きがないと言いにくい台詞の所は、仮の小道具を持たせてみる。今日は椅子に座って読んでいたので、立って動くことも出来たのだ。
 
 台本は壁を越えて47頁にまで至る。将棋で言えば、駒がぶつかりあって混戦状態になっていたが、寄せの筋が見え、一気に展開したという感じだ。明日、この第3稿を印刷して配布する。月曜日までにもう少し書けたらまた配布するつもりだが、50頁のめどが付いたことでほぼ形は出来た。まだ詰めの段階があるが、大勢は見えた感じである。あとは香川県で書いてメールで送るのかな? 
 夢による突破という手法はとらなかったが、劇中劇という形に近くなっている部分はある。また同じ手法かと思われるのは癪だが仕方がない。
 
 自分はプロの脚本家でもないし、アマチュア劇団や創作グループに加わっているわけでもない。全く孤独な1人の物好きに過ぎない。そんな人間が1年に1本、それなりの、(それなりのというのは、上手く言えないので誤解されるかも知れないが、心を込めたというか、「お話」を作るというだけではないという意味だ)脚本を書こうという場合、結局、今の自分をすべて出さなければ書けない。まあ本当に「すべて」でもないが。
 
 
 脚本について思うこと。
 普遍化するのも方法の1つだが、徹底的に個別化するのも1つの方法である。同様な出来事は無数にあるが、その1つをとってみれば、それを経験した人にとっては唯一無二の出来事であり、全く同じものは1つもない。それを徹底することで逆に普遍的な共感を生むこともあるだろう。