明日からまた寒くなるようだ

 日曜は人がだいぶそろって場練ができた。影絵芝居の練習もしたが、まだ通していない。
 晴れた昼だと暗幕の下や端から光が漏れてけっこう明るい。本番は夕方だからもう少し暗いだろうが、やはり目張りが必要か。
 
 この校内公開練習を見に来たいという他地区の顧問の先生がいて、どうぞというが、本音は暗幕のついた部室(照明)の様子が見たいということのようだ。平日に本当に来れるんですか?
 
 生徒リーダー研修会で、庄内地区の先生から県大会の舞台写真CDと動画DVDをいただく。
           イメージ 1                              
 再生してみた動画は引きっぱなしの固定で表情も見えないが、久し振りにあの芝居を見て台詞を聞いて、最後のあたりでは胸に迫るものがあった。
 
 左はその舞台写真の1枚。
 
 
 
 
 
 お酒が入っての芝居談義。ひとの芝居をあれこれ批判するのはたやすい。自分も勝手なことを面と向かって言ったりする。ともすればあら探しになってしまうのをいかに自制するか。
 その芝居を作った人の意図するところは十分に分かっていても、それが、具体的な表現としておかしいと感じたら、やっぱり言ってしまう。それはダメで、もっと違うやり方があるだろうと。
 
 だが、あそこはああじゃない、こうすればいいのではないかと言ってみても、実際にそれで良くなるかどうかはわからない。たとえば、「トシドンの放課後」で言えば、最後にトシドンが客席を向いて、平野が奥を向いて対する方が良いとか、あかねが机の上に乗るのが良いとか、自分も思ったものだが、実際に演出してみればやはり平野の表情が見えなければ話にならないわけで、見当違いなことを口にしている場合が多い。
 そんな重箱の隅をつつくようなものでなく、芝居の根幹をなす部分が認めがたい間違いを抱えている(脚本の欠点)と思うときは、全否定のような言い方になってしまう。でも作った側にもそれなりの信念があるわけだから意見はぶつかってしまう。あとは観る人の受け取り方か。
 
 しかしまた、観客も、芝居の意図するところを理解せず、見当違いな反応を示すことがある。誰の反応が一番正しいかなど言えるわけもないが、意図に反する反応を呼んでしまうのは、やはりその芝居の力の限界(失敗)ではないのか。もし、有料の劇団の芝居を観ていて、隣の客がそんな反応(笑うところでないのに笑うとか)をしたら、自分の感動はだいなしなわけで、その憤懣は誰にぶつければいいのか。人によって受け取り方は違いますから、全員に同じ反応を求めることはできませんと言われてそれで納得できるのか。演じる側はそれでいいのか。