山形演劇鑑賞会第323回例会 井上ひさし追悼公演

井上ひさし・作 「化粧」 こまつ座 平淑恵、鵜山仁・演出
2月2日(水)18:30開演 19:50終演 山形市民会館大ホール
 
 開演前、緞帳が上がっている。8間以上ある舞台間口が4~5間に狭められている。7列目下手端の席だったので見切れてしまう。開演前の席詰め(横詰め)でようやくなんとか見られる席になる。そのせいか、架空の鏡を通して役者と客が対峙する感じからはほど遠く、その緊張感を味わうことができなかった。それが以下の感想に影響しているのは間違いない。席割りをもう少し考えてほしい。
 緞帳線にタッパいっぱいの黒いパネルを立てて仕切った中を、地方の劇場らしい名の入った年季の入った(すり切れた)幕が縁取っている。
 舞台は大小何本もの幟(五月洋子、五月座)とすだれで囲ってある。楽屋の化粧台、衣装行李などがある。奥に舞台への出入り口の幕がある。(渡辺「化粧」、木村光一演出では下手に出入りしたと思う)
 上手寄りに1本、ぼろ布をよったような太い紐が下がっていて、袖側に引き上げてある(これは最後に使われるが、ここで書くとネタバレになる)。
 裸電球が三つくらい下がっている。演歌や大衆演劇らしい音楽がしきりに入る。また、解体工事の音もくり返し入ってきて、もう前半から狂気の中ということが分かる作りになっている。ここは木村演出と違っている。
 平淑恵は私と2歳しか違わないのに若くて、渡辺「化粧」のような感じは出ない。渡辺美佐子とは20歳違うからなあ。渡辺「化粧」の場合、600回以上も繰り返し上演された芝居は練れていて、勘所がすべて把握されている。余裕で演じている安心感がある。平の芝居はそういう意味ではまだまだ自分のものになりきっていない発展途上の感がある。また、上品できれいなので、世間の苦労を全身に浴びてきた老醜に近い女座長を演じるにはもったいないように思ってしまう。世間ずれした、うらぶれた感じを受けない。役としての若い侠客と女座長・母親の切り換え(落差)がもっと鮮やかにできたらいいのかなあと思った。
 最後の狂乱場面は仕掛けもあって迫力が出ている。拍手も大きい。しかし自分の好みとしてはあまり好きな終わり方ではない。(観た位置のせいもあるだろうが)
 声はすべて舞台上のマイクで拾っていた。プロセからではなく舞台上下に置いたスピーカーから出している。どうしても後を向いたときの台詞の聞こえ方が不自然になる。
もしかしたら風邪気味で声が万全ではなく、そのためのマイクだったのかもしれない。
 
 生き別れの母子の思い。芝居という虚構(化粧)と現実(素顔)の狭間で狂っていく女座長。これを1人芝居で描ききった脚本はやはりすばらしい。大衆演劇調の台詞回しも見事である。