審査について

 最近の県大会の審査で、自分の抱いている懸念の1つは、不遜な言い方かも知れないが、審査員が「未熟さ・粗さ」を「荒削りな魅力」としてとらえているのではないかという点だ。偶然に現出したその「魅力」が、上位大会においては発揮されず、稽古を重ねて磨いたが故に逆に未熟さを露呈し、見劣りする舞台になってしまう。「こんな舞台ではなかったはずだ」と思うが、実はそれが本当の姿だったということに今更ながら気付くということになっていないか。
 この懸念について、その原因の一つに、台本を読まずに舞台を観て審査するということがあるように思う。舞台を観てから台本を読み、なんだこう書いてあるじゃないか、と言うのは逆ではないのか。台本を読んでから舞台を観てこそ、作劇・演出の意図と力が分かるのではないか。聞こえない台詞も、あらかじめ読んでおけば分かるだろう。聞こえなかったので筋書きが理解できない、なんてことで審査していいのだろうか。舞台効果が、ねらったものか偶然か、成功か失敗か分るのは台本を読んでいてこそだろう。また、創作脚本賞は、脚本自体を読まずに選ばれるのだろうか?
 
 前に審査について、「審査員は自分の演劇観によって選出すればいい」と書いた。しかし、たとえば東北大会審査のシステムは5人の投票によるわけで、その結果出てきたものが各審査員の「総意」になるのだろう。が、あるいはそれは、責任の所在が不明な、一種不思議なものなのかもしれない。「総意」は各審査員個人の結論とはズレていて、数人の中の誰の意見とも一致していないかもしれない。その場合、1人の審査員が、自分の意見とあまりに違う結果に納得できず、異を唱えるということができるのだろうか。審査員間で調整が行われるとなれば、誰かが自分の意見を一部取り下げなければならない。「声の大きな人が勝つ」みたいなことも嫌われるので、調整にも限度があるだろう。ひょっとしたら審査員自身、結果に対してある不満を抱きながら終わるのかもしれない。
 審査員は重みに差のある(◎○△)数票を投ずるので、単に獲得票数で決まるのではない。◎が1~2付いた上演と、○や△が4~5付いた上演とでは、◎の方が上になるようだが、これ以上の審査の詳しい内容は知らない。
 これは県大会でも同じである。その審査結果は決められたシステムに則って出たのだから、そのまま受け容れなければならない。じゃあ投票制はちょっとあれだから合議制にしようということになると、これはこれで別のことが引っかかってくる。いっそ1人に任せて全責任を持ってもらうという手もあるかもしれない。…そりゃ引き受ける人がいないな。
 
 問題はここから先の、さらに上位の大会に出た場合のことだ。我々が自分のところの代表として上位大会に出してやりたい作品は本当にそれなのか、それでいいのか。もちろん地区同士、学校同士、利害関係を持つ自分たちが選ぶことはできないのだから、第三者に任せるしかないのだが(本当にできないのか?)。では審査員は上位大会でのその芝居の成績に「責任」を持てるのか? 他校との比較だし、大会ごとに審査員の演劇観が違うんだから、責任なんか持てるわけがない。でもそこを見据えた審査であってほしい。
 
 生徒創作についてはその意義を認めるのにやぶさかではない。が、書き上げるまでの時間が限られていることもあるだろうが、練り上げが不足している。生徒の感情が生で出ることもある。少し冷静になって対してみると、どうもおかしいので前のように野放図に演技できなくなる。そして修正してゆくにつれ勢いが無くなりつまらなくなる、という傾向がある
 「みんなでよく議論したんですか」と審査員が聞く。議論は必要だろう。しかし誰かが一つの方向を定めなければならない。それをするのは作者以外にない。エチュードから創作していくという方法をとる場合も、結局は誰かがまとめなければ最終的な作品にはならない。そしてそれは、無理な継ぎ合わせになってしまう恐れもある。そして、本邦初演の創作台本を実際に舞台化するのは大変な作業である。高校生の潜在的な力は大変なものがあるが、しかし、短時間の作業で出来るものにはやはり限りがある。
 
 「トシドンの放課後」は台本の持つ力が強いため、どんな部が演じてもそれなりに感動を呼び起こすことが出来る。演出・演技が未熟でも、10校中1校が「トシドンの放課後」を上演すれば、これが1番に評価されることもありえる。逆に、10校が全部「トシドンの放課後」を演じたら、その演技力、演出力の差は歴然と現れるだろう。脚本はそれ程に大事だという話。
 
 今回のブロック大会の審査講評を聞いていてあらためて思ったことは、芝居はあくまでも人間を描くのが主であるということだ。ストーリーやテーマが先に立つと、役柄が従になってしまい、人物が単なるメッセンジャーになってしまう。そうではなくて、観客が感情移入できる役柄、人間描写が必要である。そのことで観客の心を動かさなければならない。審査員の表現を借りれば、ロジックよりエモーションということになる。
 昔、映画館のスクリーンに映る悪役に向かって罵声を飛ばしたり物を投げつけたりする観客がいた。そのように劇に没入できるのが観客の幸せなのではないか。そこで客が観て共感しているのは、具現化されたテーマというよりは生身の人間の感情であろう。
 
 微妙な味をみる舌の感覚。激辛に慣れてしまっては麻痺するだろう。演技についても、強い、オーバーな表現を多用しているうちに、微妙な心理表現が失われていく恐れがある。観客の心の琴線に触れるような台詞のやりとりが欲しい。「かげの歌」の演出は、実にそこが良くできていた。心にしみる感動。1年以上の期間をかけて重ねた稽古が生みだしたものだ。成熟させる時間が必要なんだなあ、やっぱり。