脚本について

 昔々、某女子校で正顧問になって数年間、上演する台本は晩成書房の高校演劇脚本集から探していた。上演許可というものが必要なことも認識せず、勝手に書き変えては上演していた。今思えば恐ろしい気もするが、これが自分にとって脚本を書く練習になったことは間違いない。
 山口厚美、作「夢見しものは」なんか、ラストシーンのじゃんけんを、最後に客席に向かってするように変え、客席に向かって「あなたが主役」と言わせたものだ。(読んだことのない人は分かりませんよね)
 女子校なので必然的に町井陽子先生のものが多かった。「女王陛下とクーデター」をやったときには、上演許可は取ったかと思うが、大幅に書き換えてほとんど別の話にしてしまった。男を抹殺し、クローンによって女性だけの世界を作るという、壮大な話にしたのだ。そしたらなんと、県大会の審査員に町井先生が来られることになった。上演後の懇談会で、先生に謝りに行ったら、「半分は私の台詞ですよねェ」と苦笑されていた。登場人物の名前で「エイ」と「レイ」が聞き取りにくいのでかえていたところ、名前は「ヤス」「クニ」「エイ」「レイ」、つまり「靖国英霊」なのだと教えられた。反戦という作者の意図を深く考えず、自分の発想を優先して書き変えていたのだから不遜きわまりない、お恥ずかしい次第だ。
 しかし、どうしても自分の感覚に合わないものは変えるしかないと思っていた。ここから創作まではもう一歩である。某男子校と合同で公演するようになって、某先生の「オン・ザ・サイト」という作品をやった。劇中の明暦の大火を関東大震災に置き換え(髷が結えないので)、話も換骨奪胎、大幅に変えてしまったが(某先生には誠に申し訳ありません)、正月の3日間、部屋に閉じこもりで書いた台本は、自分の作品であるという手応えがあった。ほぼ同時に、別の処女作が書けた。15年以上も前の話だ。
 著作権問題は難しいが、高校生の無料公演については、そんなに面倒に考えなくてもいいのではないか。特に部活顧問の作品は、プロじゃないのだから、お互い研究の対象にして、各高校が自分なりの解釈で書き変えて上演しても良いのではないかと思う(意味ある改変が可能ならば、だが)。
 前に「トシドンの放課後」の演出について載せたのは、そんな考えもあってのことなのだ。