ロシアの極東進出と日本 7 タタールの軛を脱す

 1480年、「ウグラ河畔の対峙」によって「タタールの軛」が消滅したと言われる。

 ウグラ川はモスクワの南を西から東に流れ、オカ川に合流する。さらに、モスクワを北方から東側に巡るヴォルガ川に合流する川であり、モスクワの重要な地形的防衛線になっている。

 チンギス・カンの長男ジョチの末裔の国である大オルダ(「キプチャク汗国」とも。モスクワの南方ドン川流域にあった)のアフマド・ハンがモスクワ大公国(イヴァン三世)を攻撃した際に、この川を挟んで対峙したが膠着状態となり、冬の河川凍結を待たずにタタール側が撤退したことをもってこのように言うと。当時のロシア側はすでに火器をもっていたが、相手は弓矢だった。

 当時ロシア西方(ドニエプル川流域)は、大国だったリトアニアが支配していたが、これらの国相互の緊張関係がタタールの勢いを弱めたこともあるらしい。

 繰り返すが、筆者晩鶯はヨーロッパ史には甚だ疎く、俄か勉強の結果を書いているに過ぎないのでその旨ご了解いただきたい。

 

 「軛を脱した」といっても、なお南のステップ地帯にはタタールの残党遊牧民がいて、しばしばロシアの農地を襲ってきた。この地域を南進するのはまだ先のことになる。

 

 ロシアの英雄イェルマークがウラル山脈の東、西シベリアのイルティシ河畔にあったシビル汗国の首都イスケルを落としたのは1581年秋のことだった。イスケルはイルティシ川がオビ川に合流するところである。なお、この「シビル」が「シベリア」の語源だという。

 

 川が多数登場するが、ドニエプル川は今のウクライナ戦争でよく知られている。ドン川はその東を流れアゾフ海に入る。ヴォルガ川はモスクワ方面から東流し、ウラル山脈に沿って南下、カスピ海流入する。

 ウラルを越えるとシベリアの大河はおおむね南から北へと流れ北極海にそそぐ。トボル川、イルティシ川からオビ川へ。オビ川水系の上流で「マコフスキー連水陸路」を通り、東のエニセイ川上流に至る。そしてエニセイ川を下って行く。このようにロシア人はタイガ地帯を水系と連水陸路を伝って進んだのだ。マコフスキー連水陸路からエニセイスクに至ったのが1619年。遥か東のレナ川流域のヤクーツクに至ったのは1632年だった。やがてシベリア東端に近づくと川は東流し、北太平洋オホーツク海に入る。オホータ川河口、オホーツクへの到達は1649年だった。

 

 この時代、日本は1615年が元和偃武1616年には後金(後の清)建国。江戸幕府は1623年から三代将軍家光で、切支丹迫害追放の時代。1637~38年島原の乱。スペイン、ポルトガル渡航禁止となる。代わりにオランダから情報を得(オランダ風説書)、商館を平戸から長崎出島に移す。1644年には明が滅亡。鄭成功が幕府に援助を乞うが応じず。1649年は慶安の御触書の年。イギリスでは「ピューリタン革命(今は「英国内乱」というらしい)」でチャールズ一世処刑。

 

 イェルマークはコサック(カザーク、ハザクとも)の首長(アタマン)で、ストロガノフ家に雇われてシビル汗国を攻撃した。ストロガノフ家はウラル以西で広大な領地を持ち、毛皮商人である他、農地造成、漁業、製鉄、製塩などを広く行う一大企業だった。領地内では裁判権すら持っていた。ウラル以西で毛皮獣を獲り尽くした彼らが、さらに毛皮を得るにはウラル以東への進出が必要だった。

 イェルマークの軍勢は少数だったが、小火器や大砲を多数装備し、弓矢で突撃してくる騎馬隊を容易に打ち負かすことができたのだ。このような状況の変化は、司馬遼太郎が書いているが、日本で鉄砲が騎馬隊を破った長篠の合戦とほぼ同時代のことである。

 「かれらが皇帝にみやげとして持って行ったのは二千四百枚もの黒貂の毛皮だった。さらに黒狐というめずらしい毛皮獣の毛皮二十枚、ビーバーの皮五十枚というものであり、これによってイヴァン四世は自分があらたに得た領土がいかに豊かで広いものかを知ったにちがいない。」(『ロシアについて』司馬遼太郎

 

 これより以前、イヴァン四世は1552年にはヴォルガ川流域にあったカザン汗国を征服し、ウラル方面への足掛かりを得ていた。翌1553年には前述のイギリス船の来航により、バルト海を経ずに西ヨーロッパへ出る「白海貿易」の道が開けた。

 

 

参考図書『ロシアの拡大と毛皮貿易 16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』彩流社2008 森永貴子)