1945年8月15日以降における韓国の農地改革(朝鮮半島における土地制度の変遷)その31

昭和14年(1939)の大旱魃

 

 戦前の日本において食糧流通が統制され配給制になってゆく直接のきっかけは、昭和14年(1939)に起きた朝鮮中部以南7道における大旱魃であろう。

 この旱魃の実状は中村總七郎「朝鮮の旱魃土地改良事業」(昭和16年『農業土木研究』第13巻第1号)に詳しく書かれている。旧字体で読みにくいが引用する。なお当時の新聞記事を見ればもっと実態が分かるのだろうが、今は探す余裕がない。

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 南鮮方面の降雨量は昭和13年の水稻結實期頃より例年になく寡く,爲めに灌慨水不足し一部地方には早害を蒙りたるところもあり,其の後も降雨なく昭和14年の春期となるも尚極めて雨量は微々たるものであつた。例年に於ては5月半頃より揚子江低氣壓の最盛期に入り,揚子江流域に發生する低氣壓は多く東又は北東に進み内地及朝鮮南部に多量の雨を齎しつ ゝあるも,昭和14年揚子江低氣壓の發生極めて少く中部以南に於ては5月11日,北部に於ては5月13,14日に相當量の降雨がありしを最後として,北東部の一部を除き殆んど全鮮的に6月上旬迄30日に垂んとする長期間に亙り雨らしき雨を見ず,其の後6月上旬末蒙古に發生したる低氣壓が満洲を通過したる際に中部以北には驟雨性の豪雨を見たるも,南鮮地方に於ては依然として降雨なく,6月下旬には屡々低氣壓の襲來ありしも其の量は僅かにて,平年量の7割に達したるは濟州のみで,釜山,大邸に於ては3割である。7月に入るに及んで太平洋に發達したる高氣壓が朝鮮に勢力を延し弱き颱風が來訪せるも,中旬以降は無く再び雨を降さず。今早害を被りたる7道 の自4月至7月の降雨量を平年と比較せば右の通りである。(表省略 平年508~659㎜のほぼ半分、202~348㎜である)

 全羅北道の氣象状況を本道の略中心に當る全州測候所観測の統計に據り詳述するに,
量に就ては自1月至5月迄の過去10箇年の平均は279粍に封し,昭和14年は183粍にして約3割も少く,尚稻の植付に最も大切なる6月の降雨量は平均151粍に對し,昭和14年は僅かに62粍に過ぎざる状態にして,10粍内外の少雨は無降雨日敷と見倣して連績旱天日數を調ぶるに,自4月至8月迄は次表の如くである。(表省略 118日の内、98日が旱天)
 貯水池に必要なる前年10月より昭和14年5月迄の雨量を見るに,388粍となり平均年の427粍に比し39粍のみの減少にて大差なきも,前年の灌概末期の9月の残水が非常に少なかりし爲冬の少雨にては満水せず,之が昭和14年の灌慨初5月末の貯水状況が悪かつた原因である
 日照も自4月至8月迄の平年は1,129時間の所,昭和14年の同期間は1,308時間にて非常なる差がある。蒸發量に就ては日照と同期間のものを見るに,平年は771.6粍にして昭和14年は900.4粍である。 

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 全州測候所観測降水量の月ごと変化(10年間平均及び1937~39年 ㎜/月)



 昭和12年(1937)は豊作であったが、13年(1938)は降水量が少なく、旱害を被った。したがって内地への移入量が半減した。引き続き14年(1939)の未曽有の旱魃によって、ほぼ朝鮮から内地への移入が無くなった昭和15年(1940)、この年度の朝鮮から内地への米移入量は39,5万石(約5万3千㌧ 1石135㎏で換算)に過ぎなかった(当時の日本内地の人口は7,138万人)。これは、日本内地、朝鮮、台湾を一つに見た食糧自給体制が崩壊したことを意味した。内地だけでは食料自給はできなかった。

 その代替は東南アジアからの外米の輸入であったが、「輸入」となれば国から金が流出する。陸軍は、昭和12年(1937)7月に起きた日華事変が長引き、中国に派遣した兵に対する軍糧確保の必要があったし(北支への軍糧は朝鮮米であった)、戦費確保のために輸入に国費を費やしたくなかった。そのため消費の制限を求める方向であった。

 日本は昭和14年(1939)10月に第一次外米(タイ米、ラングーン米)100万石(約13万5千㌧)の輸入を行った。

 一方で、消費制限として11月には「米穀搗精等制限令」が施行された。内務省に於いても、一部の市町村で「日用品」の消費統制の一環として米穀にも「自治的」切符制が採用された。これは配給への流れが始まっていると言えるだろう。

 朝鮮では内地から安価な米を移入し、四国から麦類を、オーストラリアから小麦を輸入した。

 昭和14年(1939)2月17日、朝鮮総督府が「朝鮮米満支輸出禁止令」を出すと(軍糧は該当せず)、満洲・北支の在留邦人は朝鮮からの米が途絶えたため、台湾米や上海米に替えざるを得なかったが、味覚の面で嫌われた。米不足は「白米飢饉」といわれ、8月には済南の総領事館が日本人への米の販売に「一人一回一斗まで」という制限を課した。9月には青島で食米配給伝票をもって購入するようになった。そのため、課金を嫌って居留届を出していなかった邦人が相次いで届け出たため、課金が激増したという。11月には、日満支物資交流会議決定の北支邦人向け新米穀年度分36万石の内9千石が積み出された。しかし、邦人人数に対して10日分ほどにしかならず焼け石に水だった。12月には七分搗きの朝鮮米を一斗4円77銭で販売。

(この部分は、主として「戦争中の新聞等からみえる戦争と暮らし」◇朝鮮米(愛知県立大学名誉教授 倉橋正直)戦争と平和の資料館 ピースあいち から引用しました。)

 

 以前に当ブログでこの旱魃について書いた部分を再掲する。

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 昭和141939)年は未曾有の旱魃で、米の作付面積は123万町歩で前年より42万町歩!減、収穫高は1435万石で1千万石!減、1反歩収穫高は1.16石で、0.3石減であった。これは貧窮農民の離農を促す要因にもなっただろう。この年の人口増は15万人に止まったが、農家戸数は29千戸減、農業従事者は129千人近く減少した。一方この年、在日朝鮮人は前年より16万人増加し1.2倍の96万人ほどになった。これ以降、毎年20万人前後の増加をみる。

 地主・自作農にしても、この天候に左右される不安定な農業から離れ、土地を売ってそれを資本にして企業家へと転身する者が少なくなかっただろう。こうして会社、工場、金融業などの経営者が増加していった。また、大規模水利工事の為に、「土地収用令」によって半ば強制的に土地を寄付させられたり低価格で買収されることもあった(これは日本人地主でも同じだが、朝鮮人地主の場合は先祖代々の土地ということで抵抗は大きかった)。

 灌漑設備が完全に整うまでは、このような状況が続いただろう。この大工事、難事業に着手し、短期間のうちに進展させたことは実に快挙であるが、その費用負担は大きかった。総督府予算以外に、日本政府からの補助金、朝鮮殖産銀行の融資があった。朝鮮殖産銀行は必死に内地からの出資者を募った。日本の国家予算(すなわち日本国民の税金)、民間出資者からの資金によってこの事業が出来たのだ。受益者である水利組合員たる地主が、「公課を小作人に転嫁する弊習」のまま、組合費を小作人に負わせたのは遺憾なことだ。しかしそれを総督府が禁じ、取り締まることは(法的に)可能だったか? (大災害時に小作料の軽減、免除を通知したことはあったが。)

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 1千万石(135万㌧ 1石135㎏換算。150㎏なら150万㌧)とは、ざっくり言って山形県民100万人が10年間食っていける量である。恐ろしい量の減産であることが実感できるだろう。

 昭和14年(1939)7月末までに水稲の植え付けが不能だった水田の割合は、慶尚北道で62,5%、全羅北道で50,9%、忠清北道で46,7%、忠清南道で35,4%に及び、その面積は44万1千町歩に達した。その後も雨量不足で、「植付不能、枯死及7割以上減収面積は70萬町歩の大面積に垂(なんなん)んとし被害激甚地は一村全滅に瀕したるところも澤山あった。」(中村總七郎「朝鮮の旱魃土地改良事業」)

 

 以前に掲載した内地への米穀移輸入量のグラフを下に再掲する。昭和15年(1940)に、年々増大していた朝鮮からの移入がほぼ無くなり、代わって外米の輸入が激増しているのが分かる。この食糧状況で日本は日中戦争を継続しつつ、太平洋戦争に突入して行ったのである。

 

 

 

 日中戦争を戦う日本は、援蒋ルートを断つために昭和15年(1940)北部仏印に進駐したが、資源を封鎖される日本は外米を輸入するためにも、さらに翌年、南部仏印に進駐しなければならなかった。

 「1939(昭和14)年には朝鮮米が不作に襲われ、続く1940(昭和15)年には旱魃により、当時の日本は年間900万石(筆者注約120万㌧)もの米が不足している状況でした。国民が飢えないようにするためには外米を輸入するよりありません。

 そこで米不足を補うために仏印とタイに頼り、米を輸入していました。ところが米英の妨害によって米を輸入できる量が次第に減っていたのです。

 仏印とは輸入協定が交わされていましたが、6月に予定されていた10万トン(筆者注約74万石)は集荷不良を理由に5万トンに減らされ、7・8月についても半分に減らしたいとの申し出が為されていました。日本側はその背景に、米英の策動があったとしています。

 タイに対してはイギリスより60万トン(筆者注約440万石)のタイ米が発注され、そのために対日輸出に支障が来していました。

 米英による妨害工作を排除するためには南部仏印に進駐し、その圧を持って米の円滑な輸入を図ることが求められたのです。」(引用元 レキシジン https://seijikeizai.jp/103630/
#53 アメリカの怒りを買う南部仏印進駐はどう決まっていったのか ー 米と重要物資の確保 ー