山岡直記の書

 親戚の家にある額で、「福甚」の二文字が書いてある。

 

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 日付は読めるのだが、名の方は癖が強くて読むのに苦労した。

 

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 大正十四年乙丑
 仲春
 従三位子爵直記



 「直記」は人名で、山岡直記(なおき)。
 元治(げんじ)二年(1865)二月二日生、昭和二年(1927)三月四日没。
 山岡鉄舟(1836~1888)の長男。号は「蓉湖」。

 勝小吉の『夢酔独言』に、鉄舟が死ぬ日に直記が勝の家に、「父が死にます」とか言って呼びに来たとかいう挿話があったと思う。
 明治二十一年(1868)、子爵となり、式部官(宮内省式部職)をつとめる。必ずしも品行方正とは言えない人だったようだが、父親の爵位を継いだということか。
 大正十四(1925)年二月には満六十歳、還暦。

 本来なら最後に「~直記 」とあるはずだが、無いのは不審。
 落款印が薄くて読めないが、おそらくは号の「蓉湖」(蓉はハス)が彫ってあるのではないかと思う。額の裏面に何か書かれていないか、あるいは裏板を外した額の中に何か書付などが入っていないか確認してもらったが、何も無かったそうだ。

 

 晩年の直記本人が山形の□□□家に立ち寄って揮毫した物か、売りに出ていた物を購入したのかは分からない。山岡直記の伝記・年譜を読めば何か分かるかも知れない。もし立ち寄って書いたのなら、「福甚」は当主「井屋吉」のことを掛けているのだろうが、購入した物なら、たまたま「福」「甚」の二字があったので気に入ったということなのではないだろうか。立ち寄ったとしても、五代長兵衛が前年大正十三年に亡くなっていて、その一周忌が済んでいない時期なので、あまり盛大なもてなしはなかったのではないだろうか。

 (後日追記 2022、3、24)

 「幕末の三舟」は、勝海舟山岡鉄舟高橋泥舟であるが、泥舟と鉄舟は義兄弟である。泥舟は山形県河北町谷地出身(定林寺)の僧、琳瑞に師事しており、泥舟の妹が同じ谷地の長谷寺(ちょうこくじ)に嫁いでいるらしく、よく訪れていたという。しかし、水戸斉彬に近く、攘夷派で公武合体論者であった琳瑞は、泥舟の弟子に暗殺されてしまったという。また泥舟は谷地から最上川を下って清川の清河八郎に会ったともいう。その後、泥舟の義弟、鉄舟は八郎と同志になっている。鉄舟も山形に来たようで、その書が残っているそうだ。

 というわけで、鉄舟の長男直記が山形に来ていても不思議ではないようである。

 

 大正十四年に直記が描いた日本画の落款を(ネットで)見ると、少し書体が違い、この額の方がやや丸い感じはする。