武漢と孫文の鉄道

 


 今世界の問題になっている新型ウイルスの感染初発地である湖北省省都武漢市は、長江と漢江で区切られた武昌・漢陽・漢口の三つの地区からなる。古くは「武漢三鎮」と呼ばれた所である。「中国のへそ」とも呼ばれている重要地である。東西南北の道路、河川、鉄道が集まる所なのだ。

 そして、近代中国の歴史の中でもまた大変重要な地になっている。

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  揚子江を挟んで手前が武昌。対岸の漢水を挟んで左が漢陽、右が漢口。

 

 1911年(明治44年、宣統2年)、4月黄興らによる黄花崗の役、10月武昌起義によって中華民国北軍政府が誕生した。12月には南京が革命軍の手に落ちた。各地で蜂起した10省の軍政府が上海に集まり、南京を首都とする中華民国臨時政府が樹立された。その時孫文は追放されて海外にあり、アメリカで武昌起義の成功を知った。

 帰国の要望を受けた孫文は資金繰りのためヨーロッパを経、南回りで帰国した。

 12月29日、孫文は17省の代表によって行われた選挙で16票を獲得し、大総統に就任した(1票は黄興)。

「1912年1月1日、孫文は南京にて中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大総統就任のための宣誓を行った。『臨時大総統職宣誓書』の中で国民主権の国家であり、漢満蒙回蔵諸民族による国家体制を強調している。1月2日、孫文は各省に陰暦の廃止と太陽暦の採用及び中華民国暦の採用を通達し、1912年を中華民国元年とした。」(wikipediaより引用)今年2020年は中華民国109年になる。

 北京の清朝政府と南京の革命政府は南北講和をめざし、清朝最後の皇帝宣統帝(愛親覚羅溥儀)の退位から共和制への移行に同意する。かくして孫文は翌年2月13日、臨時大総統を袁世凱に譲る。わずか一月余の在任期間だった。

 

 孫文は臨時大総統を袁世凱に譲ったが、経済面での建国に熱意を持ち、1912年(民国元年)7月に粤路公司(広東鉄道会社)を復活させ自ら会長となった。その発会式で「今後、中国の鉄道を三百五十万里(百七十五万キロ)まで敷設できたら、地球上で最も強大な国になることができる」と語った。(譚璐美『革命いまだ成らず』下巻)

 (ここでは現代中国と同じく1里を0.5㎞で計算している。清代に公定された1里は360歩=1,800尺(1尺は32㎝)=576mだった。これで換算すると200万㎞以上になる)

 これは、中国が今実現している世界一の鉄道距離から見ても、途方も無い距離である。桁を間違えているのではないかと疑うくらいだ。中国の鉄道路線は、2012年末で110,000㎞。2017年末で127,000㎞(その内高速鉄道25,000㎞)だそうだ。 
 孫文は同年8月の宋教仁あて手紙では「十年の後、二十万里(およそ10万㎞)の鉄路を敷設できたら、全国を縦横無尽に行き来できるのだ」と書いた。こちらは現在の距離にほぼ等しい。ただし、達成できたのは10年後ではなく100年後だった。